洋の夏休み
−6−

「洋、富屋の社長が来てくれて言うとるんや、行ってくれんか。県会議長でな、 なかなかうるさい人よって、気いつけて揉みい。ワシは具合が悪うて来れへんて 言うといてくれ」
と猫山が言ったのは、八月に入って間もない日曜日の午後のことだった。

 富屋旅館の社長の家は、富屋を見下ろす山の中腹にあるという。

 洋は、石ころだらけの山道を、何度か転びそうになりながら登った。富屋旅館 の前の道を右側に回ると、階段があるという猫山の話に従って、洋はしばらくそ の辺りをウロウロした後、ようやく階段を見つけた。それがまた、右に左に蛇行 している階段で、洋はその階段を何度か踏み外しそうになりながら、ようやくの ことで玄関らしい場所にたどり着いた。

 ドアの左右を手で探ってインターホンを押すと、間もなく女性の声があって、 洋は中に招き入れられ、その女性に手を引かれて、とある和室に案内された。部 屋がいくつもある、旅館のように大きな家だった。
「マッサージさんが見えました」
と女性が言うと、
「よう、猫山の所に来た若い衆っていうのは君か。よろしくやってくれ」
と言う、老人らしい
嗄れた声が聞こえた。

 洋は目を細めて、部屋の中を見回し、敷かれた布団と、その上に横たわろうと している老人の姿を捉えた。

 声は嗄れてはいるものの、太くて力のこもった大きな声だった。 洋が触れた 体は、着ている浴衣越しに肋骨も一本一本が指で確かめられるほど痩せていた。 猫山が県会議長と言い、お手伝いさんらしい女性が、社長と呼んだ老人は、洋が 揉むに連れて、ウーウー唸った。
「おい、もうちょっと緩くやってくれ、痛くてかなわん」
と老人が言った。
「はい、どうも済みません」

 洋は慌てて指の力を抜いて、ほとんど撫でるように老人の体を揉んだ。
「うん、それでいい」
と富屋の社長は満足そうに声を和らげて言った。

 揉み終えて、
「ありがとうございました」
と言って、洋が正座して礼をしたときには、老人はいびきをかいて寝入っていて、 何の返事もしなかった。

 寝入ってしまった老人を起こして金を請求するわけにもいかず、洋は部屋を出 てしばらく廊下に立っていた。
「ああ、終わりましたか。ご苦労さま」
と、さっきのお手伝いさんの声が聞こえた。
「代金をいただいていないのですが」
と洋がおずおずと言うと、お手伝いさんは、
「あら、それは猫山さんから聞いていませんか、社長と奥様は無料なんですよ」
と、さも当然のことを知らないというように言った。

 小屋に戻って、洋がそのことを話すと、
「富屋はお得意さんよってな、社長と社長の奥さんの分はサービスなんや。ここ で仕事させてもろてるんやから、しょうあらへんやろ」
と猫山はそっけなく言ったが、すぐに、
「でもな、洋にただ働きさせるのも気の毒よって、ワシがその分払ったる。今日 の上がりから、2,200円引きい」
と言った。

〔6項の終わり〕
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