洋の夏休み
−7−

 ウー氏がやって来たのは八月半ばの旧盆前のことだった。ウー氏は、東京にあ る目の不自由な者のための更生施設で洋と同級生で、年齢も洋と同じだった。の んびりした性格で、顔も体格もふっくらと丸かった。ウー氏というのは、そうい う彼の容姿と、上野原という、やや長い姓に由来して、同級生の誰かが付けたニ ックネームだった。

 ウー氏を迎えて洋は嬉しかった。猫山と二人だけの生活に、どんな楽しい会話 があるというのか。猫山と洋の間には、毎日、仕事や生活上で必要なこと以外、 ほとんど会話らしい会話がなかった。今回この温泉郷にやって来て二週間余りの 間、洋は気の合う話し相手もなく、猫山の指示に従って黙々と働くばかりだった。
「上野原、早速仕事や。増屋の203号室に行きい」

 電車にバスを乗り継いで、ようやく小屋にたどり着いたウー氏に、猫山は容赦 なくそう命じた。
「えっ、いま行くんですか」
とウー氏は驚いた様子で尋ねた。

 ウー氏にしてみれば、半日がかりでようやくたどり着いた山間の温泉郷で、今 夜はゆっくり温泉に入ってビールでも飲んで眠り、明日から仕事にかかるつもり だったのだろう。しかし猫山はそんな気遣いをする男ではない。
「そうや、お前ここに何しに来たんや、仕事やろ、仕事して金稼ごう思うて来た んやろ。ほなら早う稼ぎに行かんかい」
と猫山はウー氏をせき立てた。

 脇でその様子を見ていた洋は、ウー氏の気持ちがよくわかったから、何とか猫 山に助言してやろうと思った。しかし、そんなことを聞く猫山でないこともよく 知っている洋は、黙って成り行きを見ているしかなかった。
「洋、上野原は初めてやから、お前一緒に増屋へ行ってやれ、ちょうど一〇七で 二人、仕事が入っとる」

 そう言うのが、猫山としては精いっぱいの心遣いだったのだろう。
「ウー氏、行こうか」

 洋はそう言ってウー氏の仕度を待って外へ出た。
「いろいろ聞いてたけど、本当にすごいオヤジさんだね」
と、洋よりさらに視力のないウー氏は、夜道を洋の左腕の肘につかまって歩きな がら言った。
「みんな最初はびっくりするけど、慣れれば何とかつき合っていけるようになる よ」

 ウー氏には、猫山のような男に仕えて仕事をするのは無理かもしれないと思い つつ、洋はそう言った。

 施設の寮での生活ぶりを見ていても、ウー氏の生き方は、実に飄々としていた。 のんびりおっとりしていて、何事にもこだわらなかった。たとえば金についても、 あれば使うし、なければ、それはそれでいいとして、特にそれを稼ぎ出そうとか 工面しようとはしなかった。

 寮で生活している洋たちは、よく街で食事をしたり酒を飲んだりした。目が不 自由なことに加えて、ストレスの多い寮生活をしている洋たちにとって、それは 何よりの楽しみだった。ウー氏も例外ではなく、よく、洋や同じクラスの仲間達 と街に出て食事をし、酒を飲んだ。しかしウー氏は、金がないときは、 けっして誘いに乗らなかった。
「金はあるからいいよ」
と誘っても、
「またにするよ」
と言って、寮にとどまる。

 それで苦痛ということでもない様子で、ウー氏は淡々と生活していた。そうい うウー氏の生き方が、洋は好きだった。
「ウー氏、僕が107の二人をやるから、ウー氏は203の一人をやってくれよ」
と、施設の実習室以外の所で客を揉んだことがないというウー氏に気遣って、洋 はそう言った。

 一時間ほどで107の客を揉み終えて、ロビーでウー氏を待っている洋のもと に、猫山から電話が入った。
「洋、今日はごっつう忙しいで。富屋で6六人、松屋ホテルで団体さんが10人や。 いいときに上野原が来てくれよった。ワシも入るよって、洋と上野原と、松屋ホ テルの10人片付けてくれ」

 受話器の向こうの猫山の声は、上機嫌に弾んでいた。旧盆も近く、どうやら今 夜はこの夏いちばんの忙しい夜らしかった。

 ウー氏、大丈夫かなと不安に思いながら、洋はウー氏が出てくるのを待った。 しかし、ウー氏はなかなか出て来なかった。洋は一時間で二人の客を揉み終えて いた。ウー氏が二〇三号室で揉む客は一人だった。それなのに、ロビーで別れて から一時間を経てもウー氏は姿を現さない。追加の客でも揉んでいるのだろうか。 洋は、203号室の前の薄暗い廊下を往きつ戻りつしてウー氏を待った。

 二人が増屋に入ってから一時間半近くたって、ようやくウー氏は203号室か ら出てきた。
「お待たせ、とても話好きなおばあちゃんでね、お茶をご馳走になっちゃって」
とウー氏は上機嫌で言った。

 洋は、ますます先行きが心配になるのを隠しつつ、
「ウー氏、また仕事があるそうだから、十分ほど歩いた下流のホテルに行こう」
と誘った。
「うん、いいよ、行こう」

 ウー氏はおばあちゃんにお茶をご馳走になったことがよほど嬉しかったらしく、 上機嫌で洋の言葉に従った。

 その夜、洋とウー氏が小屋に帰り着いたのは午前二時だった。洋は10人、ウー 氏は7人の客を揉んでいた。二人とも疲労困憊していて、言葉を発するのも面倒 だった。先に戻っていた猫山が、
「おい、ビールおごったるから、一本ずつ飲みい」
と気前よく誘ったが、二人ともビールを飲む元気もなかった。
「今夜はいいですよ。寝ます。清算は明日にさせてください」

 洋はようやくそれだけ言って、ウー氏を伴って二階に上がり、二人分の布団を 敷いてもぐり込んだ。

 翌朝、目が覚めて時計の針に触れると九時を回っていた。ウー氏はまだ寝てい る。仕事に慣れた洋だったが、それでも昨夜の忙しさは応えていて、体のあちこ ちがミシミシ痛んで、このままでは今日の仕事ができそうもなかった。あるいは 昼にも仕事が入るかもしれない。

 洋はウー氏の体を揺すって起こしにかかった。
「ウー氏、ウー氏」
と何度か声を掛けて、ようやく目覚めたウー氏に、
「風呂へ行こう」
と誘いかけると、ウー氏は、
「洋ちゃん、僕右手が腫れて、ひどく痛むよ」
と訴えた。

 手首の腱鞘炎でも起こしたのだろう。これでは仕事はできないかもしれない、 と洋は思った。
「とにかく風呂に入って、また一眠りしよう」
と言って、洋はウー氏を伴って増屋の展望湯に向かった。

 風呂で互いの背中を流し合いながら、洋はウー氏に問われるままに、この温泉 郷について語った。ウー氏と二人での入浴は、一人で入っているときとは違った、 和やかな気持ちを洋にもたらしてくれた。

 風呂から戻って、また寝る。疲れている体は、すべてのことに先立って眠りを 求めていた。

 昼過ぎに目覚めて、洋はウー氏を伴って和の屋へ赴いた。

 和の屋に着くと、洋はカツ丼を二つ頼んだ。
「ウー氏、この温泉郷で疲れたら、これに限るよ。この温泉郷でこれよりカロリ ーの高い食事はないんだ」
と洋はテーブルに向かい合わせに座っているウー氏に言った。

 しかし、毎日カツ丼を食べていても体力の消耗は激しく、洋は自分の体重が確 実に減っていることを自覚していた。何より、この温泉郷に来る前に比べて、腰 のベルトの穴が一つ詰まっていた。

 小屋に戻ると猫山が、
「洋、富屋の桧の間でお呼びだ。今日帰るらしいから、ようく揉んでやりい」
と声をかけた。

 洋は、どことなくだるい体を押して富屋に向かった。

 女の客は、それまでと全く変わらない態度で洋のマッサージを受けた。そして 洋があの日以来、常にしているように、汗だくになって揉み終えると、
「ありがとう。いつも大変だったわね。おかげさまで元気になったわ。名刺を上 げるから、気が向いたら遊びにいらっしゃい」
と言って、さらに、
「私はね、東京の銀座で料理屋をしているの」
と言った。
「伺っていいんですか」
と洋が半信半疑で尋ねると、 「大丈夫よ、いつでも席をとってご馳走して上げます」
と約束してくれた。
「ありがたいのは僕のほうです、いい勉強をさせてもらいました。本当にありが とうございました」

 洋はそう言って深々と礼をして桧の間を出た。

 洋が小屋に戻ってみると、ウー氏と猫山が一階の猫山の部屋で、座卓代わりの 電気炬燵を挟んで何やら話し合っているところだった。

 洋は黙って部屋に入り、ウー氏の隣に座った。

 ウー氏は猫山に、
「手が痛くて今日は仕事ができません」
と訴えていた。

 洋は、やはりそうか、と少し不安な気持ちになった。
「アホ、お前プロやないか、免許持っとるんやろ。何で手首が痛くてできんのや。 左手があるやないか、それで揉みい。何しに来たんや。一晩揉んだだけで、腕が 痛いの手首が痛いのと泣き入れよって。最近の若い衆は全く根性がないのう。悲 しゅうなるわ」
と、猫山はウー氏を叱り飛ばした。

 この猫山の剣幕に、ウー氏は黙ってしまった。

 洋はたまりかねて、
「猫山さん、僕がやりますよ、僕がやりますよ」
と言って、何とかウー氏を仕事から解放してやろうとした。

 今のウー氏にとって、仕事はこの上ない苦痛だろう。その責任は、ウー氏をこ の温泉郷に誘った洋にあるのだ。
「洋ちゃん、いいよ、僕行くよ」
と、ウー氏は言った。
「駄目だよ、ウー氏。無理をしたら本当に右手が使えなくなるよ。腱鞘炎が慢性 化でもしたら大変だから、今日は休んでいなよ」
と洋はウー氏に言った。

 その日、ウー氏は結局仕事を休んだ。そのウー氏が、
「洋ちゃん、悪いけど、僕帰らせてもらうよ」
と洋に言ったのは翌朝のことだった。

 洋は、困ったなと思った。忙しい旧盆を目の前にしてウー氏に帰られることは、 猫山にとっても洋にとっても痛手だった。負担がそれだけ増える。毎日カツ丼を 食べ、缶コーヒーを何本飲んでも、乗りきれるかどうか。すでに洋は、この温泉 郷に来たときより腰のベルトの穴一個分痩せている。

 しかし、ここでウー氏を引き止めるわけにはいかない。引き止めれば、人のい いウー氏は無理をして仕事を続けるかもしれない。そうすれば、ウー氏は疲れ果 ててボロボロになってしまうだろう。
「わかった。ウー氏、夏休み明けにまた施設で会おう。バス停まで送って行くよ」

 そう言って洋は立ち上がった。

 猫山にそのことを話すと、
「フーン、しゃあない。去る者は追わんのがワシの主義やからな」

 多忙な旧盆を控えてウー氏に帰られることは痛手のはずだったが、猫山はそん な素振りは微塵も見せずに、サバサバした様子でそう言った。

 温泉郷のバス停は土産物屋の前にある。一時間に一本、正時に出る銀色のバス が停まっていた。真っ直ぐ家に帰るというウー氏は、土産物屋で山菜の漬け物と 温泉まんじゅうを買ってバスに乗り込んだ。
「それじゃウー氏、元気で。悪かったね、もうちょっとのんびりできればよかっ たんだけど」
と洋はウー氏に詫びた。
「悪いのは僕のほうだよ。洋ちゃんの根性には敬服するな。全く立派なもんだ。 いつまでここにいるの?」
とウー氏が尋ねた。
「今月いっぱいいて帰ろうと思うんだけど、大将があんなだからね、いつまで持 つかわからない。明日にも喧嘩してこのバスに乗るかもしれないよ」

 洋は、半分本気でそう言った。

 ほかの客が何人かバスに乗り込み、運転手が席に着いた。エンジンが掛けられ、 バスは小刻みに振動しはじめた。時計を探ると針は十一時を指している。
「ウー氏、二学期が始まったらまた一杯やろう」

 そう言いつつ、洋は自分もこのままバスに乗って麓の駅まで下りたいという誘 惑に駆られた。

 その思いは洋の足を一瞬止めさせたが、洋はそれをねじ伏せてバスを降りた。

 ひときわ高いエンジン音とともに、バスは銀色の車体を光らせて麓の駅に向か って走り去った。頭上の真夏の陽が、残された洋の寂しさを薄めてくれた。

〔7項の終わり〕
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