洋の夏休み
−5−

 猫山という男は、29歳になる洋が出会った男の中で、最も変わった男の一 人だった。太い眉、落ち窪んでギョロリとした目、大きな口は、猫山が日中戸外 にいるときなど、洋の目にも見えた。頭は丸刈りで、
「体重が80キロ以上あってな、少し減らさんとあかん」
という大柄で肥え太った体格。腕の太さも、洋の腕の二倍はある。

 この猫山が夜、ノッソリと部屋に入って来たら、気の弱い客などはギョッとし て体を固くしそうな気がする。

 年齢は50歳を少し過ぎたくらいだろう。独り者で、猫山の口から、妻子や親 兄弟の話を洋は聞いたことがなかった。
ときどき酒を飲みながら、
「極道して17で家出て、それから狂ったこの人生、裏街道まっしぐらや。行き 着く先で地獄の閻魔さんが待っとるやろ。ワシが行ったら、よう来た、待っとっ たわ、門番でもせェ、言うてくれるかもしれんな」
と言って笑ったことがある。

 猫山が自分の過去について洋に語ったのは、唯一これだけだった。この猫山の 言葉には、一片の感慨も感傷もない。猫山は、自分の人生に拘泥して、あれこれ 悩んだり感傷に耽ったりするような男ではなかった。感傷などという言葉とは無 縁な、砂漠の砂のように乾いた心を持ってそこにあるがままにある男のように洋 には思われた。

 つい数日前、こんなことがあった。昼過ぎ、猫山に命じられて訪れた部屋で揉 んだ客は、布団の上に寝そべって洋に背中を揉ませながらビールを飲んでいた。 そして、
「最高だ」
と居合わせた仲間の男たちに満足げに漏らした。

 洋を怒らせるにはそれだけで十分だったが、さらに男は
「ああ極楽だ、これで一発やれれば死んでもいいよ」
と仲間に語りかけ、下品に笑った。

 居合わせた男たちも笑った。

 この言葉を聞いた瞬間、洋は怒りで顔がカーッと火照るのを感じた。俺はなぐ さみものにされている、という屈辱感が洋の血を熱くさせた。これ以上の侮辱は ない。こん畜生!と思って、洋は手を止めた。
「おい、そんなにいい気持ちか、それじゃ俺も頼もうかな」
と、これもビールを飲んでいるらしい男が言った。

 洋は、そこで憤然と立って部屋を出たかった。体中が熱くなり、怒りが抑えて も抑えても胸の奥から突き上げてくる。

 しかし、洋はその怒りを渾身の力を振り絞ってねじ伏せ、束の間止めていた手 をゆっくりと動かし始めた。仕事を断ることはできない。今、この温泉郷にマッ サージ師は猫山と洋の二人しかいない。仮にその場を、
「先に予約がありますから」
とでも言って逃れても、追いかけて電話が来るだろう。

 それに、客を断わったりしたら、猫山は、
「何でお客さんを断わるんや。お客さんは神様やないか。断わらんならんときは ワシが断わるよって、洋はワシに連絡せェ」
と言うに違いない。

 洋は怒りをこらえて、その部屋で4人の客を揉み終えた。まだ日が残っている 夕方、洋は一日の仕事を終えたときほどの疲労感に押しひしがれて、重い体を小 屋まで運んだ。

 小屋の階段の上がり口で会った猫山は、
「おい洋、えろう疲れた顔してるやないか、どないした。これからが本番やで」
と声を掛けた。

 そこで洋が経緯を話すと、
「そういう客もあるわ。全く、金取り病死に病やな、洋」
と、慰めるでもなく言って笑った。

 洋はこのとき、ああ、やはりこの人の心は砂漠の砂のようだ、と思ったものだ った。

 そんな猫山が、ある日の午後、洋を自分の部屋に招いてお茶を入れ、こんなこ とを言った。
「洋、卒業したら、ワシと一緒にここのマッサージやらへんか。半年で一年分稼 げる、十一月から三月までは冬眠期間よって、下界で遊んでおればええ、春にな ったら上がってきて稼げばいいんや。本当に忙しいのはゴールデンウイークと夏 だけや。治療院開業するにも金が要るやろ。ようけ金貯まるで。ワシもな、半年 働いて、あとの半年は下界でアパート借りて遊んどるんや。金があれば女もつい てくるし、ほんまにエエで」

 世上を離れて、この山間の温泉郷で仙人のような生活をしてみるのもいいかも しれない、と洋は思う。でも、自分はそんな索寞とした生活を何年も続けられる だろうか、そんな生活に耐えられるのは、やはり砂漠の砂のように乾いた心を持 つ猫山のような男だけではないか、とも洋は思った。

〔5項の終わり〕
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