洋の夏休み
−4−

「どうしてる、元気?」
と言う、啓子ちゃんのおっとりした、ちょっと甘えるような声が聞こえて、洋は 思わず受話器を握り締めた。
「元気だよ。けっこう忙しくてね、朝起きて風呂に入って、ご飯を食べて、昼寝 をして、起きて仕事をして、夜の11時過ぎて帰ってくる、そのくり返し」
「大変そうね」
「ウーン、大変でもないよ。仕事ってみんなこんなものさ」
「フーン、そうなの」

 啓子ちゃんは感心したように言った。状況が全くわからないときに、いつも啓 子ちゃんはそんな言い方をする。啓子ちゃんのそういう、幼さの残った話し方や、 おっとりしたところが洋はたまらなく好きだった。
「それより、啓子ちゃん、この秋にウイーンの歌劇団が来て魔笛をやるの、知っ てる?」
「知ってる。ぜひ観たいと思ってるの。洋さんも一緒に観に行かない」
「ありがとう、僕もぜひ行きたいと思ってるんだ。僕がチケットをプレゼントす るから、一緒に行こう」
「エー、嬉しいな。楽しみにしてるわ」
「それから、いつこっちに来れるって?」
「うん、八月の半ば過ぎになると思うの、それまで洋さんそっちにいるかしら」
「いるよ、八月末までいるつもりなんだ」
「ホテルは空きがあるかしら」
「大丈夫だよ、どこかのリゾートなんかと違って、夏の間中満員なんてことはな いから。あまりいいホテルはないけど、どこか探しておくよ」
「お願いね、きっと行くからね」

 啓子ちゃんがそこまで言ったとき、
「おい洋、いつまで電話しとるんや、注文入ってもわからんやないか、いい加減 にせェ」
と言う猫山の不機嫌な声が聞こえた。

 洋は、こん畜生と思いつつ、啓子ちゃんに、
「どうやらお呼びらしいから、また電話するよ、元気でね、バイバイ」
「洋さん、またね。必ず行くからね」
という啓子ちゃんの言葉を聞いて、洋は受話器を置いた。

 受話器を置くとすぐに電話が鳴った。
「それ見い、お客さん待たせよって」
と猫山は先ほどと同じ不機嫌な声で洋を咎めた。

 洋が受話器を取ると、
「富屋です」
という女性の声があって、
「桧の間のお客さんが若い衆に来てほしいと言っています」
と言う。

 洋は、ああ、またきた、と思いつつ、猫山にその旨を伝え、早速仕度をして小 屋を出た。不機嫌な猫山と一緒にいるよりは、相手がいくら大変な客でも仕事を しているほうがよかった。
 啓子ちゃんが旧盆過ぎには来るという。何と嬉しいことだろう。このモノトー ンの温泉郷での生活の中に、色鮮やかな大輪の花が咲くような出来事ではないか。

 増屋か富屋か松屋ホテルか、どこの旅館を予約しようか。そんなことを思いな がら、洋は富屋への山道を登った。晴れた日の午後、日頃はレースのカーテン越 しに物を見ているような洋の目にも、辺りの風景は色鮮やかなものに見えた。青 い空、樹木や草の緑や木肌の色、道の土の色、近くに迫っている山々の輪郭とそ の色、そうしたものが、いつになくくっきりと見えるように思われる。

 洋の心に、モーツアルトの変ロ長調のピアノ協奏曲の優美な旋律が聞こえた。 モーツアルトが生まれ育ったザルツブルグの町も、このようにすがすがしい夏を 迎えているだろうか。いつか、年を追って落ちていく視力がゼロにならないうち に、わずかでも視力の残っているうちに、街の様子を見ることのできるうちに、 ザルツブルグへ行きたい。それは誰にも語ったことのない洋の夢だった。

 猫山が、銀座の会社の社長と呼んでいた女の客は、洋が部屋に入ると、昨日同 様黙って布団の上に横たわった。洋には少し余裕があった。今日でこの女の客が 三日間続けて自分を呼んでくれたということは、自分の揉み方をそれなりに評価 してくれているという証拠だと洋は思った。

 洋は最初の日の、緊張してギゴチない手つきではなくて、慣れたしなやかな手 さばきで肩から入った。

 そのときだった。
「お兄さん、手を抜いちゃいけないよ。まだまだ慣れるのは早いよ」
と、それまで沈黙していた女の客が突然口を開いて厳しい口調で言った。

 洋の手は一瞬にして縮んだ。
「済みません」
と、思わず洋は詫びた。

 縮んだまま手が進まなくなった洋は、女の客の肩から手を離して、正座した膝 の上に置いた。参りました、勘弁してくださいという思いだった。
「お兄さん、私があんたを毎日頼むのは、あんたが上手で、あんたの揉み方が私 に合っているからじゃないのよ。下手くそでどうしようもないけど、とにかく一 生懸命揉んでくれる、それが気に入ったからなの。それを誤解してもらっちゃ困 るわよ。さあ、続けてちょうだい、最初の日のように一生懸命揉んでちょうだい」

 女の客の言葉は洋を圧倒した。
「すみません」
と洋は再び詫びた。

 そして、まさに最初の日のように力いっぱい揉み始めた。

 やはり二時間近く揉んで、
「どうですか、これでいいでしょうか」
と、洋は恐る恐る女の客に尋ねた。
「ああ、いいよ、ありがとう」
と、女の客はさっきの厳しい口調を忘れたように、穏やかに言った。

 女の客は終えて帰る洋に、また一枚の札を出して、
「釣りは要らないから」
と言った。
「いや、どうかお釣りを取ってください。僕の腕ではチップなんか貰えないこと がよくわかりましたから」
と、洋は懇願する思いで言った。
「いいから取っておきなさい。普通の倍の時間揉んでくれたんだから、チップと いうわけでもないわよ」

 そう言って女の客は笑った。

 それは都会の女らしい乾いた笑い声だったが、どこかに温かみの感じられる笑 い声だった。
「わかりました。頂きます。ありがとうございます」

 洋は素直に女の客から金を受け取って富屋を出た。

 帰途、下り坂にもかかわらず、洋の足は上り坂を登るときよりも重かった。

 この苦く恥ずかしい出来事を、いつか懐かしい思い出として誰かに語れる日が 来るだろうか。自分は一人前のマッサージ師になれるだろうか。啓子ちゃんの電 話に浮き浮きしていた洋の心は、川底の石のように重く沈んでいた。
「おい洋、おばはんに叱られたか。不景気な顔しとるな。あのおばはん、うるさ いやろ。体はごっつう固いしな。でも洋、勉強や、頑張って揉みや。あのおばは んを揉みこなして満足させたったら、学校卒業してどこへ行っても飯食えるさか いな」

 猫山は壁にもたれて座っている洋の前に腰を下ろしてそう言った。いつもなら、 うるさいなと思う洋だったが、このときは猫山の言葉が心にしみて、
「はい、わかりました」
と素直に答えていた。

 その返事を聞いた猫山は、
「これはよっぽど重症や」
と、今度は笑って言った。

〔4項の終わり〕
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