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銀河

 洋は食器の触れ合う音で目覚めた。どうやらユリが朝食を作っているらしかった。
「黙って冷蔵庫開けてご免なさい。起こしちゃ悪いと思って」
 ユリが用意してくれた朝食は、スクランブルエッグにトマトサラダ、玉ネギのスープにトーストだった。それが洋には、自分が作る朝食よりずっとおいしく感じられた。
 出がけに、洋はユリに部屋の鍵を手渡した。
「ありがとう」
 ユリは嬉しそうに言った。その言葉の響きは、もう親しい間柄にある人の言葉のように洋には聞こえた。
 さらに、
「行ってらっしゃい」
 というユリの言葉が、洋の心をくすぐった。自分が、『ローマの休日』の新聞記者の役柄をちゃんと演じられたことに、洋は満足だった。
 職場にいる間中、洋はずっとユリのことを考えていた。朝、居室を回って一人一人のお年寄りの機嫌を伺っているときも、指導員室で記録をとっているときも、食事のときも。
 ユリが床に就いたときの「おやすみなさい」という小さな声、鍵を手渡したときの「ありがとう」という親しげな言い方、そして「行ってらっしゃい」と、洋を送り出した声のやさしい響き。
 ユリは一体、自分のことをどう思っているのか。ユリの心は、自分をどう捉えているのか。洋にはそれがとても気になった。気にすると、普段はあまり意識することのない銀河が、いつもより強い光を放ってまたたいているように感じられた。

 「もも」の居室の前を通りかけた洋を、小森トミさんが呼び止めた。
「洋さん、ニコニコして、何かいいことあったの。いいお嫁さんでも見つかったの?」
 と尋ねる。
 洋は慌てて、
「とんでもない、見つかりませんよ」
 と否定した。
 このとき洋は、他意のないトミさんの言葉が、いくつものこだまを生んで、自分の心の奥深くまで響いていくのを感じた。

 洋とユリの生活は三日間続いた。洋は、自分が、『ローマの休日』の新聞記者の役柄をちゃんと演じていることに満足だった。しかし、眠れぬ夏の夜が三日も続いて、頭の中は次第に朦朧としてきていた。
 楽々園からの帰途、駅への道を辿りながら、洋は、自分のユリへの思いについて、あれこれ思案した。思いめぐらしながら、洋は、木の枝のサナギが、ゆっくり時間をかけて蝶に羽化するのを待っているようなもどかしさを感じた。
 そして、薄暗い林間の階段を下りて、明るく見晴らしのよいロッジの前に降り立ったとき、洋はある言葉に思い当たった。それは、この三日間、ずっと洋の心に霧のようにかかっていたものを吹き払った後に、煌めいて、身震いするような衝撃をもって洋に意識された言葉だった。

 僕はユリを愛している。そうだ、僕はユリを愛しているんだ。
 そう思ったとき、洋は白杖を持ったまま、曲がりくねった坂道を踊るようにして走り下った。対向して上ってきた車が、その洋に、怒ったようにクラクションを鳴らした。電車の中、洋は、もう銀河なんかどうでもいいんだ、僕の目のことなんか、どうでもいい、ユリの僕に対する気持ちさえどうでもいい、僕はユリを愛しているんだ、という熱い思いに打たれ続けた。
 ユリを迎えて四日目の夜、洋はウイスキーを飲んだ。蒸留酒の、熱い酔いが体内に回るにつれて、洋の、僕はユリを愛している、という思いは燃え立った。
 ユリも、よく飲んで話をした。郷里の海辺の町のこと、幼い日々のこと、学生生活のこと。
 その会話が、二人の心を溶け合わせた。

 洋がユリを抱いた。ユリは自分を激しく拒み、怒って部屋を飛び出していくのではないか。それで、すべてが終わるのではないか。その思いが、洋を必死にさせた。胸がドラムのように鳴った。
 洋はユリの唇に自分の唇を重ねた。かすかに震えていたかと思うユリの唇は、わずかに開いて洋を受け入れた。
 翌朝、洋はいつもどおりの時間に起きて、朝食の支度にとりかかった。ユリはまだ寝ている。トーストにハムエッグ、トマトサラダにワカメと玉ネギのスープを作る。
「おはよう」
 と洋はユリに、記念すべき朝の挨拶をした。
「おはよう、寝坊しちゃった」
 ユリの言葉は、穏やかで無邪気だった。その声に、前日までの固さと翳りはなかった。
 ユリは、キッチンに立っている洋の背後を回って、バスルームに入って行った。シャワーの音が聞こえる。勢いよく夜を洗い流すシャワーの音。
 洋は、布団を押入れにしまい、座卓に自分が作った朝食を並べた。
「食事できてるよ。気に入らなかったら残して」
 バスルームから出てきたユリに洋はそう言った。
 朝食を終えて、洋は玄関に立った。
 その洋の背後に立って、
「行ってらっしゃい」
 と送り出すユリの声は、無邪気で幼かった。
 洋はアパートの階段を下りて、歩き慣れた路地を一目散に駅に向かった。

 毎日が静かに過ぎていくモノトーンな職場で、洋の心は一日中、華やいで軽かった。退勤時間の六時がくると、また一目散に駅に向かって丘を下りる。
 洋はアパートの前に立って、二階の窓を見上げた。六畳の部屋とダイニングの窓は、蛍光灯の光に明るく輝いている。ユリはいる。
 ユリは僕の部屋にいる、僕の帰りを待っている。そう思って、洋は勢いよく階段を上った。
「お帰りなさい」
 とユリは洋を迎えた。
「食事の支度、できています。メニューは、私が揚げたフライドチキンとグリーンサラダと、ベーコンと玉ネギのスープ」
 と、ユリは、嬉しそうに言う。
「ブラボー」
 洋は大袈裟に喜んでみせた。
 食事が終わり、二人は食卓の傍らで抱き合った。
「こんなに人を好きになったの初めて」
 そう言ってユリは、洋の胸に顔を寄せた。
 僕はユリに愛されている。ユリは僕を愛してくれている。そう思うと、洋の心に無数のきらめく泡のように歓喜が湧き上がってくる。
「愛してるよ」
 と洋はユリに応える。
「どのくらい?」
 とユリは尋ねる。
「こんなにいっぱい」
 そう言って、洋は両腕を広げて見せた。
「そんなものじゃ駄目。証拠を見せて」
 と、笑いを含んだ声でユリはねだるように言う。
「いま、何か欲しいものある?」
 と洋はユリに尋ねた。
「ケーキが食べたい。シェルブールのケーキが食べたい」
 このユリの言葉を聞いて、洋はすぐに白杖を手に外に出た。洋は、酒で少し明るんでいる視界に任せて、急ぎ足で駅前のシェルブールに向かった。
「ねえ、洋さん、私、洋さんに何かしてあげたいの。どんなことでもするから言って」
 洋が買ってきたケーキを食べながら、ユリがそう言った。
 洋はちょっと考えて、一冊の本を机の引出しから取り出した。
「これをテープに吹き込んでくれる?」
 それは『海辺の生と死』という物語で、これまでに洋が読んだ最も美しい物語の一つだった。
「私、読むの下手だけど」
 とユリは自信なさそうに言った。
「何度も読んで、その本が本当に好きになってからでいいよ」
 と、洋は言った。
「そんなにすてきな物語なの。私より好き?」
 と問い返したユリの手を取って、洋は抱き寄せた。

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