銀河

 その芝ユリが、洋が困惑するような相談を持ちかけてきたのは、七月に入って梅雨明けも間近いある日のことだった。
 その日、芝ユリはシェルブールのケーキを携えてやって来た。
 洋が入れたコーヒーを一口飲んで、ユリはこう切り出した。
「夏休みに本屋さんでアルバイトをしたいんです。でも、休みの間は寮が閉鎖されてしまうので、アルバイトができません。それで、アルバイトをする夏休みの最初の十日間と最後の十日間、洋さんの部屋に泊めてください。食事の支度もお掃除も私がします。ご迷惑はかけませんから」
 このユリの言葉を聞いたとき、洋は唖然とした。
 ユリは洋の部屋を訪ねてはいる。しかし、泊めてくれということになれば、これは全く別の話だ。
 しかし洋は、
「いいですよ」
 と答えていた。

 このときの洋に、これ以外、どんな返事ができただろう。自分を頼っている芝ユリの頼みを、どうして断ることができただろう。洋に、断る理由はなかった。
「ありがとうございます。図々しいお願いをしてすみません」
 ユリは、嬉しそうに言った。
 洋は、ユリの喜ぶ様子に、自分もまた喜びを覚えた。
 リハビリテーション学院が夏休みに入る前日、ユリは大きなバッグを提げてやってきた。梅雨明けの日差しが眩しい日の午後のことだった。
「いらっしゃい」
 と迎えに出た洋に、
「すみません、お世話になります」
 と丁寧に挨拶して、ユリは部屋に入ってきた。
 ユリが入ってきた途端、乾いて粗い部屋の空気が柔らかく和んだ。
 夕方、洋はユリを誘って駅近くのスーパーに買い物に出掛けた。
「夕食、何にしますか?」
 と洋が問うと、ユリは、
「洋さんにお任せします」
 と答えた。
 結局、すき焼きにすることに決めて、ユリに見繕ってもらって、すき焼きの材料を買い揃えた。
 アパートの部屋に戻ると、ユリは、
「食事の支度は私がします。私にやらせてください」
 と言った。
 洋はそのユリの言葉に一途なものを感じた。しかし洋は、そのユリを制して、
「すき焼きは簡単だし、今日だけは、ユリさんはお客様しててください。明日から、気が向いたら作ってください」
 と言って、すき焼きの支度を始めた。買い揃えた牛肉やネギ、その他の材料と食器を用意して座卓に運び、カセットコンロをセットする。

 二人はビールで乾杯した。ちょうどそのビールの泡のように、浮き浮きした気分が、洋の心の底から湧き上がってくる。
 ところが、ユリにはいつもの快活さがない。何となく落ち着かない様子だ。
「ご馳走さまでした。片付けは私がします。本当に私にさせてください」
 洋は、そう言うユリに押されて、後片付けを委ねた。
 片付けが終わったのを見計らって、
「よかったら、風呂に入ってください」
 と洋が言うと、
「えっ、ええ、ありがとうございます」
 ユリは囁くような小さな声で応えた。そして、しばらく間をおいて、
「それじゃ、入らせていただきます」
 と、妙に丁寧に言って、バスルームに入って行った。
 不思議なことに、バスルームから、物音はほとんど聞こえなかった。
 しばらくしてバスルームを出てきたユリは、静かだった。何事も、そっと、そっとと自分に言いきかせてしているようだ。パジャマに着替えたらしいユリは、南側のベランダに面した窓を開けて、そのまま動かなかった。どうやら夜空を見ている様子だ。

 洋は、高校生の頃にテレビで観た、『ローマの休日』という映画を思い出した。映画の中に、お忍びの王女様が新聞記者の部屋に泊まるシーンがあった。グレゴリー・ペックが演じた新聞記者は、とても紳士だった。クローゼットの中で寝て、何事もなく一夜を過ごしたではないか。僕も、あんなふうに紳士でなくては、と洋は思った。
 洋は自分の身の置き場を思案した。しかし、クローゼットはないし、押入れはガラクタでいっぱいだ。仕方なく洋は、真ん中に座卓を置いて、左右に二組の布団を敷いた。
「明日は早いから、今日はもうやすみましょう。おやすみなさい」
 そう言って洋は照明を消した。
「おやすみなさい」
 と応えたユリの声は、とても小さくて、頼りなげだった。
 洋は、なかなか寝つけなかった。ユリもまたそうらしく、寝息が聞こえない。洋の銀河は、闇の中ではっきりとまたたいている。まどろんでは目覚め、またまどろむうちに、洋の銀河の周辺が明るんでいた。その明るみを目にしたとき、洋はホッとして眠りに落ちた。

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