◇ひとりぼっちのフィールドワーク◇
-その3- 鶴巻 繁

◇−優先席−◇

 私は週2、3回、東京四谷の施設に通って、講演や会議録のリライトテープ、 ワープロで入力したゲラとFDの受け渡しをする。横浜線小机駅から菊名へ出て、 東横線で渋谷へ、渋谷から山手線で代々木、代々木から総武線で四谷駅まで、往 復3時間ほどを通い続けてもう10数年になる。
 この間、駅と電車の中ではいろんな人に出会い、何度も印象深い場面に遭遇し てきた。前にも書いたように、渋谷駅では2度、ホームから落ちたことがある。
 しかし、以下に書くような場面に遭遇したのは今回が初めてだった。

 10月31日の金曜日、午後、私は東横線菊名駅で急行の渋谷行きに乗り込んだ。 立っている人もいたが、幸いいつも乗る車両の端の3人掛けの椅子を立って、 「どうぞ」とすすめてくれる男性がいて、私はありがとうございます」と言って 腰を下ろした。席をすすめられたときは、いつも素直に座らせていただくことに している。
 私はいい気持ちで居眠りをしていた。電車のシートは自分にとって書斎であり 寝室だと言っていた知人がいたが、全くそのとおりだと思う。菊名−渋谷間は、 座れるときはおおむね寝ている。

 あれは学芸大学駅付近でのことだったと思う。突然、「俺は障害者だ!」とい う、初老の男性のものらしい金切り声で目が覚めた。見えていない私には、何が 起きているのかさっぱりわからない。続いて、「立て、立てよ、お前たちは学割 りなんだろう」という同じ人物の声。その声は、どうやら私が座っているシート の向かい側の、4人掛けのボックス席のあたりから聞こえた。人が動く気配がし て、あとは渋谷まで、シンと静まりかえって、電車の走る音しか聞こえなかった。電車
 私は、居眠りでボーッとした頭で事情を推測した。そういえば、その声の前に、 楽しげな若い男の子の話し声が聞こえたような気がした。どうやら、どこか体の 不自由な初老の男性が、座っている学生らしい若者を、じっと見ていた。睨みつ けていたのかもしれない。早く換わってほしかった。しかし、若者たちは一向に 席を替わろうとはしなかった。そこで初老の男性は、我慢できなくなって、怒鳴 ったのだろう。
 私には、その出来事の後の、シンと静まりかえった辺りの雰囲気がどうにも重 く感じられて、電車が渋谷に着くと早々に席を立った。
 電車を降りるとすぐ階段がある。その下り口で、高校生らしい三人ほどの男の 子たちが、「何で怒鳴るんだ」「怒鳴らなくていいだろう」「今度言われたら、 俺は反論する」と、ブツブツと不平を言っていた。ああ、あんな事態に遭遇して、 怒鳴った相手に殴りかかるような若者たちでなくてよかったなというのが、私の 正直な印象だった。

 電車内で席を替わってくれる人が年を追って増えているように思う。往復3時 間の道程で、必ず一度は替わってくださる人がいる。ありがたいことだ。実はこ の日の帰りの総武線の車中で、また別の出来事に遭遇した。これは、私が直接か かわった話だ。私がとあるシートの前に立つと、「若い人、替わってあげてくれ ますか」という年老いた女性の声が聞こえた。
と同時に、「はい、ご免なさい、すみません」と言って、その年老いた女性の隣 に座っていた女性が立ち上がった。声からして、決して若くはない女性だったと 思う。その女性に「どうぞどうぞ」と席をすすめられて、私はすっかり恐縮した が、座らないわけにもいかず、「すみません、ありがとうございます」と言って 腰を下ろした。申しわけない気がしたが、座らないわけにもいかなかった。

 最近、ある私鉄が、これまでの10数パーセントの優先席を改め、全席優先席に したというニュースを聞いた。とてもいいことだと思う。
 ただ私は、その優先席が、自分のためのものだとは思わない。私より疲れた人、 体調の悪い人、病気の人、お年寄り、身重の女性、幼児と、いろんな人が電車に は乗っているものだ。若者だって、体調が悪くもなり、病気にもなる。そういう 人たちみんなのための優先席ということだろう。

この項終わりです。
このページのトップへ戻る
前のページへ戻る
次のページへ進む

トップページへ戻る