銀河

22

 季節は梅雨に入っていた。その日々、洋は通勤の車中でも職場でも、アパートに帰っても、四六時中ユリのことを考え続けた。苦しかった。考えまいとしても、大地が梅雨空に覆われて逃れられないように、恋の苦しみは、洋の心を逃れがたく覆い続けた。
 ユリが別れを望んでいることは確かだ。だから、もうユリから電話をしてくることはない。
 ユリは、自分からは別れを切り出せないのかもしれない。それは、目に銀河を宿している洋への気遣いなのだろう。ユリはユリで苦しんでいるのだ。

 ユリは一体、どのような思いで、洋からの電話に応じて、電車を乗り継いで一時間以上かかる町から洋のもとにやって来るのだろう。ユリは、思い悩み、沈んだ表情で電車の椅子に掛けているかもしれない。ドアの前に俯いて立っているのかもしれない。あの陽気で無邪気なユリが、憂いに沈んでいる。
 ユリは苦しんでいる。自分は愛するユリを苦しめている。この思いは、自分が苦しんでいるという思いを超えて、洋の心を打った。

 洋は、いつかユリに向かって言った、
「僕は君を所有も支配もしない」
 という言葉を思い返した。そうだ、あれは偽りのない言葉だった。僕は君を所有したり支配したりしないというのは、洋がユリにした最も大切な約束だった。その約束を破ってはいけない。自分が愛する者を苦しめてはいけない。
 この思いは、梅雨の雨が降り続く日々、洋の心に生まれて、雨に育まれる木々の緑のように、次第にはっきりとした輪郭をもって洋の心に刻まれていった。

 七月に入って第一週目の三日間、洋は研修合宿に参加するため箱根に赴いた。合宿会場のホテルには、全国から参加した施設職員が集まっていた。それは、洋が福祉施設運営の専門家としての知識を高める研修合宿であるとともに、ユリと別れるための旅でもあった。
 朝から夜まで続く缶詰研修だった。夜には、缶ビールを飲みながら、施設のあり方、入居者の処遇のあり方について同室の指導員たちと語り合った。帰途、洋は、ユリへの土産に木彫りのマスコット人形を買った。

 洋は、帰宅してすぐ、ユリに電話をした。
「箱根に研修に行って、お土産買ってきたよ。ちょっと話もしたいから来ない?」
と誘うと、
「行きます」
と、ユリは気軽に応じた。明るい、元気な声だった。
 その日、ユリは赤いバイクに乗ってやって来た。そのバイクは、六月にもらっ
た初めてのボーナスで買ったという。
「これ、箱根のお土産」
 洋は木彫りのマスコット人形を座卓の上に置いた。
「かわいいな。ありがとう」
「ケーキがあるけど、コーヒーと紅茶とどっちがいい?」
 洋はキッチンに立ってユリに尋ねた。
「紅茶がいい」
 ユリは学生の頃のように、屈託のない笑いを含んだ声で答えた。
 洋は紅茶を入れて座卓に運んだ。
「久しぶりだね」
「そうね、社会人は忙しいから」
 このユリの言葉に、洋は、社会人として自立しつつある女性の自信を感じとった。
「このケーキ、駅前のシェルブールの?」
 ユリが尋ねた。
「そう」
 と洋が答えると、
「懐かしいな」
 とユリは言った。その声には、過ぎ去った日々を思う、大人びた響きがあった。
 夜、ケーキが食べたいというユリの求めに応じて、洋は白杖を手に走るようにしてケーキを買いに行ったものだ。

 洋は紅茶を一口飲んで話をはじめた。
「僕たちはこれではっきり、さよならしたほうがいいと思う。一年間、とてもいい日々を過ごせたのに、このままウヤムヤのうちに別れてしまうのは寂しいと思うんだ」
 洋は、ユリに会う約束をして以来、考え続けてきた言葉を一つ一つ確かめながら言った。
「ご免なさい」
と、ユリはいつものにこやかな調子で詫びた。
 ユリの態度が明るいことに洋はホッとした。
「一年間どうもありがとう。とても楽しかった」
 この言葉以外、いま洋がユリに向かって言えるどんな言葉があるだろう。
 ユリは、自分を一人の男として愛してくれた。そこには、銀河を宿した洋に対する同情もなければ、哀れみもなかった。それは洋にとって、どれほど貴い経験であったことか。
 ユリの、
「わかりました。お世話になりました」
 という言葉の後、座卓の上に何か硬い物を置く音がした。それが何か、洋にはすぐにわかった。それは部屋の鍵だった。昨年夏、ユリがこの部屋に泊まったときに渡した部屋の鍵が、いま洋のもとに戻ってきた。
「それから、この本、テープに吹き込んだんだけど、渡すタイミングがつかめなくて。読むの、とても下手だけど」
とユリは、一冊の本とカセットテープをテーブルの上に置いた。
 どうやらそれはいつか洋が、「何度も読んで、好きになったらテープに吹き込んで」と言って託した、『海辺の生と死』の本らしかった。その美しい物語も、再び洋のもとに戻ってきた。
「ありがとう。大事に聞かせてもらうよ」
 そう言って洋は立ち上がると、
「途中まで送って行くよ」
 とユリを促した。

 いつも仲よく並んで歩いた駅への道を、ユリは、赤いバイクを押して歩いた。
七月の夕方の街は、まだ昼下がりの明るさを十分保っている。車やバイクや、大勢の人が行き交う大きな踏切りを渡り、銀行の前で二人は立ち止まった。
「それじゃ」
 バイクに乗ったユリが言った。
「元気で」
 そう言って洋はユリに手を差し出した。
「ありがとう。洋さんも元気で」
 ヘルメットをかぶったユリはそう応えて洋の手に軽く触れ、バイクのモーターを破裂させて走り去った。

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