銀河

21

 翌日、洋は手足や背中にしたたかな痛みを覚えつつ出勤した。朝の一連の仕事を終えて、看護婦たちが一休みする時間を見計らって、医務室で手当てをしてもらった。
「洋さん、これどうしたの。背中も手脚も、青アザになって腫れてるわ」
 と、洋の背中や手脚を見た看護婦の陽子さんが大声で言った。
 洋は照れくさくて、何と言っていいかわからなかった。やはり相当の打撲傷を負っているらしい。背中に限らず、手脚の痛みは昨晩よりひどい気がする。
「酔って転んでね」
 と言う洋の言葉を信じたかどうか、とにかく陽子さんは洋の傷の手当をしてくれた。

 その日の昼休み、洋は迷った末にユリの職場に電話をした。買い物につき合ってほしいという洋の求めに、ユリは意外にあっさり応じた。その週末、ユリは洋のもとにやって来た。
 二人は駅で待ち合わせてスーパーで買い物をすませ、ケーキを買って洋の部屋に向かった。
 ユリは部屋に入る前に、
「私、すぐ帰るから」
 と、洋に釘をさした。
 いつものようにコーヒーを入れて、ケーキを食べる。洋は、先日、窓から跳び降りたことを話した。
「危ないな、どうしてそんなことしたの?」
 と、ユリは感情のこもらない声で尋ねた。
「自分でもわからないんだ。全く酔っ払いの醜態だね」
 と言って、洋は笑った。
 しかし、何事にもよく反応して屈託なく笑うユリが、このときは笑わなかった。
 コーヒーを飲み、ケーキを食べ終えて、洋は、
「耳掃除してくれる」
 と言って座卓の上に耳掻きを置いた。
「うん」
 と応じたユリは、崩していた膝を揃えて座った。その無造作な動作から、かつてユリが洋に見せていたたおやかさは消えていた。ユリは、隙なく膝をきちんと揃えて座っている。

 君に耳を掃除してもらうのもこれが最後になるだろう。洋は、頭を載せたユリの体が、かつてなく固く緊張しているのを感じて、そう思った。
 ユリが身を固くして、そろそろと耳の掃除をしている間、洋もまた我が身を固くしていた。ユリの膝から床の上に横たえた自分の体が、何かグロテスクな海獣にでもなったような違和感を覚えた。
 かつてなら、いたずらな洋の手は、ユリの体に触れて遊んでいたものだ。
 そういうときユリは、甘い声で拒みつつそれを許した。しかし今日の洋には、それができなかった。ユリは、洋の頭を自分の膝に載せていながら、洋を拒んでいた。ユリの意思は、ユリの膝に載せている洋の頭に、耳に、頬に、はっきりと伝わってくる。
 ユリは、終始無言で耳掃除を終えた。そして、
「おしまい」
 と言った。

 洋は、ああ、終ってしまったと思いつつ、ユリの膝から頭を上げた。かつてなら二人は、その後熱い抱擁へと移っていった。それは何のためらいもなく進められる恋の仕草だった。しかし、今の洋には、そうすることができない。あるいはユリは、抵抗することなく自分を受け入れるかもしれない。終始無言で、まるで義務でも果たすように。
 あるいはユリはあからさまに拒むかもしれない。そうなったら、ユリは嫌悪を、洋は惨めな気持ちを抱いたまま別れなければならない。それはいけない、それだけは避けたいと洋は思った。

 改めて洋が入れたコーヒーを、二人は無言で飲んだ。
 コーヒーを飲み終えて早々に帰るというユリを、洋は駅まで送った。
「バイバイ」
 そう言ってユリは改札口に消えた。
 それは、かつて洋に心を残して別れていくときのユリの態度とは全く違っていた。
 洋は眩暈を覚えた。足元がフラついて、アパートまでの道を病んだ犬のようにノロノロと歩いた。
 きっとユリは、自分を助手席に乗せて車を運転してくれる相手、一緒にテニスをしてくれる相手が欲しくなったのだ。あるいはもうそういう相手がいるのだろう。
 いや、そうではない。ユリには、僕より好きな男が現れただけだ、と洋は思った。洋の胸はキリキリと痛んだ。

 洋は怖かった。いましがたまでユリと二人でいた部屋に戻るのが怖かった。それでもほかに行く所のない洋は、アパートの階段を上り、重いドアを開けて部屋に入った。午後の光が差し込んでいる室内は明るかった。黒い座卓の上には、二人がコーヒーを飲んだ白いカップが載っている。
 粗く乾ききった部屋の空気が、千の針を持って洋の胸を刺した。その痛みに、洋は胸を押さえ、床に突き伏した。

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