「大都市における環境と社会経済システムの
再編に関する総合的研究」

東京都立大学都市研究所・共同研究T
「大都市における環境と社会経済システムの再編に関する総合的研究」

市民活動団体調査報告書
---横浜市青葉区・川崎市宮前区周辺を事例として---

(人文学部社会学科助教授 玉野和志氏および院生 石川良子氏の承諾を得て、掲載いたします。)
青葉バリアフリーサポート21
                              石川良子
1.はじめに
 2002年8月12日に横浜市の青葉区役所別館当事者団体交流室でインタビューを行った。相手は「青葉バリアフリーサポート21」(以下「ABS21」と表記)の代表者である。当日はインタビュー前に「インターネットサロン」(後述)に参加し、その参加者からも話を伺った。
主なインタビュー内容は、「ABS21」設立までの経緯、基本理念、活動内容、会員構成、青葉区社会福祉協議会(以下「青葉区社協」と表記)との関わりである。
 事前に参照した資料は、「ABS21」のホームページ内の「青葉バリアフリーサポート21について」で,基本的にはこの内容を確認するような形で話を伺った
http://abs21.com/group/)。ほかに青葉区社協の協力事業として企画・制作された「あおばバリアフリーサロン」のホームページも参照した
http://abs21.com/)。
2.インタビュー内容
(1)「ABS21」設立までの経緯
 「ABS21」の設立は2000年1月だが、代表者のボランティア活動歴は長い。まず、「ABS21」設立までの活動を紹介したい。

 代表者は学生時代(1960年代末)からボランティア活動に関わるようになり、最初はユースホステル協会の国際親善ガイドボランティアだった。その後結婚してからは夫の赴任に帯同してシンガポールに2度滞在することがあった(1976〜1982年と1993〜1997年)。その間も日本人会(婦人会)所属のボランティア活動に参加し、それは障害児を対象とした水泳介助と文化交流が主な活動内容だった。また、2度目の滞在ではホスピスボランティアグループの設立に携わったそうだ。人種、年齢、性別、職業、宗教などの異なる人たちが、死に行くときに平等であることを目の当たりにした代表者は、これを究極のボランティア活動と呼ぶ(インタビュー終了直後、この活動が現地で高く評価され、大統領社会事業賞を、外国人として初めて受賞されたとの連絡があった)。

 青葉区に住み始めたのは1980年代初頭だという。転入直後から、帰国児童のための国際児童文庫協会所属「ハンプティ・ダンプティ文庫」に参加し、その関係で 1988年から「横浜市緑国際交流ラウンジ(青葉国際交流ラウンジに改称)」の設立に関わった。2度目のシンガポール滞在から帰国した後、外国人支援は活発な青葉区だが、障害者支援は手薄なのではないかということに気づき、言葉が通じるのに(日本語でコミュニケーションが可能な)障害者との交流にはどうして力を入れないのか、という問題意識を持ち始めるに至ったという。1997年、横浜市役所市民局が公募していた市民公益活動推進懇話会委員に委嘱され、ホスピスボランティアの経験を活かせるような地域活動を模索していたそうだ。

 そこで考えついたのが、障害の種別や障害の度合い、年齢など、ちょうど行政による支援が手薄なところを埋めることだった。具体的な活動開始のきっかけは、知的障害児の就労援助グループ「ジョブコーチぷらすワン」の立ち上げに関わり、障害児の母親たちが時間に追われていて、しかも地域の障害関連情報が少ないということを知ったことと、同時期に参加した青葉区社協主催の「コミュニケーション・セミナー」(障害者を対象とした挨拶などの日常的なコミュニケーションを学ぶ場)と「自立生活セミナー」への関わりだった。これが1999年のことである。そこで知り合った脳性麻痺の参加者と意気投合し、青葉区社協と横浜市社協と何度も会合を重ねた末に、障害児・者の情報交換と交流の場としてのバーチャルな地域自立センターの企画案を提出した。

 代表者は、当初から外出が困難な人たちのために、インターネットを活用することを活動内容として考えていたそうだ。しかし、1990年代末は現在ほどインターネットも普及していなかったため、なかなか活動趣旨を理解してもらえずに苦労したという。青葉区内には地域情報を発信するようなホームページの作成業務などを手がけるIT関連の企業があり、サポートを依頼した。情報を渡してくれればホームページ制作を引き受けるとの申し出があったが、障害者自身が作業を行うことが重要だと考えていたため、最終的にはそれも断ったという。2000年1月にグループを立ち上げたが、社協との関係は明確ではなかった。障害の理解を深めるために、民間資格の精神対話士やホームへルパー2級を取得し、ヘルパーの仕事に従事しつつ、慶応大学の学生にアクセシブルなホームページの作成を依頼した。転機となったのは「横浜市市民活動推進条例」の制定(2000年6月)で、市民活動支援センター検討委員会委員としてこのことを知った代表者は、早速青葉区社協に協働を働きかけたところ、資金のめどが立ち、ようやく活動が軌道にのることになったのである。
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