現在の位置:トップ > 目次 > ウッチャンの落書きストーリー第13回

第11話

この物語の主人公の名は、ウッチャン!中途失明の視覚障害者である。
現在は、世間と言う大学で、生活社会学を学ぶ学生なのだ。

第十一話 ウッチャンは、三流陶芸作家(その一)

日本の芸術文化「陶芸」作品のイラスト

ウッチャンの落書きに、よく登場する場所がある。
JR新横浜駅である。
そこから、どこへ?
横浜ラポールという公共施設に通っているウッチャンなのです。
一体、何をしにいっているのか?
ジャーン!では、はじまりはじまり!

横浜ラポールは、障害者のための多目的施設なのである。その2階には、工作工房と言われるスペースがあり、障害者でも利用できるシステムキッチンが備えられ、料理もできるようになっている。5〜60人は、収容できる広さがあり編み物や手芸を楽しむ人もいれば、絵を描いたり、将棋や囲碁なども楽しむことができるフリースペースなのです。

そんな場所の片隅に、ウッチャンの姿があった。何をしているのか?
ナント、粘土相手に悪戦苦闘しながら何かを作っているではないか。
粘土細工?とんでもない、もっと芸術的なものなのです。 陶芸ですよ、陶芸!
日本の芸術文化の一つである陶芸に取り組んでいるのです。
ウッチャンが陶芸?と聞くと、ほとんどの人が愕くのだ。
ウッチャンは、その声を聞くたびにハラをたてる。
愕く理由が障害があるのにではなく、ウッチャンの性格から考えて信じられないってのがムカツクウッチャンなのだ。

しかし、「ふだんの自分の言動や行動を考えてみな。」
と言われると、ボケることも、ツッコミ返すこともできない。

さて、そんなウッチャンと陶芸との出会いは?
ライトホームに入所していた頃に話は遡る。
年間を通して、訓練以外でいくつかの行事みたいなものがある。
そんな中に、感覚訓練の一環として行われたのが陶芸だったのです。
ようやく、ライトホームでの生活にも慣れ、そしてウッチャン自身も心の変化を感じ始めていた頃だった。

さて、陶芸教室当日。
厚木市在住の陶芸家のおばちゃん登場。陶芸教室が始まった。
型どおりの陶芸についての話。
そして、ろくろに粘土をのせ、作りはじめる。
言葉での説明は、理解はできてもやると聞くとは大違い。
簡単にはうまくいかない。
ところが時間がたつにつれ、ふれている粘土の形が頭の中に浮かんできたのです。
知らず知らずのうちに夢中になっていた。
そこへだれかが声をかける。
返事をしないウッチャン。
もう一度声をかける。
まだ気づかないウッチャン。
ここでやめればいいのに、また声をかける。
そしてやっと返ってきたウッチャンのひと言。
「ナンダァ、ウルセェナァ」この返事に愕きながらも、「エッ、ゴメンナサイネ」と応える。
今度は、その声に愕くウッチャン。
ナント、声をかけていたのは陶芸家のおばちゃんだったのです。
(やってもうたぁ、マズイナァ)と思ったウッチャン。
「スイマセン、夢中になっていて・・・」とすかさず謝るウッチャン。
笑いながら、「いいですよ。真剣に取り組んでいるってことですから」と言ってくれた。
しかし、その後おばちゃんがウッチャンに言葉をかけるどころか、近づくことさえなかった。
その場にいた職員も、ウッチャンの発言に注意するよりもあきれてしまい
「先生、脅かしてどうすんだよ」で終わってしまったのです。

そんなこんなの陶芸初体験。できあがったものは、たいしたものではない。
作った本人でさえ(ダメダコリャ)と思うものだったのです。
しかし、自分の世界に入ってしまい、夢中になったのは事実なのだ。
一体、ナゼ?
もう一度やってみたいと、陶芸への興味が広がっていくウッチャンなのでした。
職員に「今度は、いつやるのか?」と尋ねると、
「来年かな。でも、また陶芸やるかはわからない。」の返事。
その言葉にがっかりするウッチャン。

しかし、陶芸初体験から数ヶ月後、ウッチャンにウレシィ情報が飛び込んできた。
それは、リハビリをかねて陶芸を病院内でやっている事がわかったのだ。
それもウッチャンが一日おきに通っている場所にあったのである。
ウッチャンは、ライトホームでの訓練以外にあるリハビリをやっていたのです。
左手に軽い感覚マヒがあって、指先で何かにふれてもそれを認識できないのです。
そのため、点字は左手で読むと言う基本ができず、右手で読む形で覚えていたのでした。

マァ、そんなことはどうでもいい、話をもとに戻そう。
入所当初からおこなわれていたリハビリだったが、ライトホームの訓練に集中するため、リハビリはやめることになりかけていた。
ウッチャンは職員に泣きついた、なんとかならないかと必死に頼んだのである。
(一週間に一回でいい、リハビリをつづけたい。それもリハビリの方法は陶芸で)
なんという身勝手な願い。
このわがままな要求を聞いた職員。
ウッチャンの必死さに負けて、「なんとかしよう」と応えたのである。

後で聞いた話によると、ウッチャンのわがままな願いをかなえるために、訓練スケジュールの調整などなど、大変だったらしいのだ。
この職員の苦労も知らず、ライトホーム入所中ウッチャンは陶芸を楽しんだのです。
陶芸をやると言ってもあくまでもリハビリ、運動療法なのである。
そのため、陶芸の基本が学べるわけではない。
しかし、それがウッチャンにとっては、形にとらわれることなく、自由に粘土をいじることができて好都合だったのである。

さて、陶芸に興味を持つ以前から通っていたリハビリ室。
そこには、陶芸以上にウッチャンの感性を揺さぶる存在があった。
それは、リハビリ室でも視覚以外の障害者との出会いであり、リハビリに取り組む障害者と、それをサポートしたり指導する職員たちの姿を見ることができる。
また、彼らの言葉のやりとりを耳にすることだった。
その空間に、時間に、少しでもこの身を置いていたいと思うようになっていたのである。

リハビリ室で交わされる障害者と指導員の会話。
スパルタ式もあれば、なだめさとすように接してリハビリをさせようとする指導員。
泣き叫ぶ声もあれば、わめく声もある。
ウッチャンに興味を持って話しかけてくる者もいれば、白杖に興味を示す者もいる。
幼稚園の休み時間のような騒音の中、愕くしかない言葉や(ナルホド)と思う言葉が耳に入ってくる。
自分を担当している指導員に、今の状況を尋ねたり、頭に浮かぶ疑問をぶつけるウッチャン。
当然のごとく、「自分のリハビリに集中しなさい」と、怒られてしまう。
それでも、知りたいものは知りたい。
あまりのしつこさにあきれて答える指導員。
その説明の中に疑問がわけば、またまた質問。
そんなやりとりがくりかえされる。
ウッチャンの頭の中に雑学的知識が入っていく。
そして新しい価値観が生まれていった。
そんな頃に出会ったのが陶芸だったのである。

目の前に、何があるのかわからない。
それでも、何もない空間に形あるものを作ることができる。
思い描いた形が自分の手によって生まれる。
何を言っても、見えない事にこだわる人もいるだろう。
そんな人に、形あるものを手渡し、触れさせて
「今、触れている形が浮かんでこないか?自分の感性を信じてイメージしてみな。もし、頭の中に形が浮かんできたら、それが視覚障害者にとっての(見えた)(見る)って感性なのだ。視覚と言う感覚は失っていても、見ると言う行動、見て何かを感じる感性まで失ったわけじゃない。」と、ウッチャンは言うだろう。

この言葉をただの屁理屈と、とらえる人がいてもおかしくはない。
視覚障害者に心の眼を持っているなんて、言う人がいるのだから。
これにウッチャンは、
「心の眼で何が見えるの?アンタに見えないものが見えてもうれしかない。たいした顔してないけど、カガミに写る自分の顔が見える目がほしい。だいたい、心の眼で世の中見えるんだったら、白杖使って誘導ブロック頼って歩くかよ」と、言葉を返す。
何か、スゴーク矛盾してんだよなぁ。
でも、しょうがない。
その時々で思ったまま言葉にしていて、考えて言葉を選ぶってことできないウッチャンだからねぇ。

さて、陶芸を始めたウッチャン。
話は、ラポールまでたどり着いてはいない。
まだまだつづく陶芸の話。
今回は、ここまで。

第13回終わり