「私の拙いタイ旅行記」

タイトル: 私の拙いタイ旅行記
      三井義輝

第一章 タイ国へ

 私は、2000年11月タイ国旅行をしました。その時の話を視覚障害者が遭遇するバリアを含めて紹介しましょう。

 バンコックへは、成田空港から飛行機で約7時間かかります。貧乏人の私のこと、安いエコノミーですから、座席は狭く退屈です。機内では、酒はいくら飲んでも請求書がこない事を良いことにして、飲んで寝るしかありません。私のこと、もちろん、そうしました。また、タバコもご法度、忍の一字です。時間は、海外旅行の癌ですね。

 空港には、2時間前、タイ入国に2時間もかかりました。ゾウさんの国ですから...。行くのに、7+2+2=9時間拘束タイムです。

 そんなに大変でも旅行者は、嬉々としています。まだ見ぬ国には大きな夢が有るからでしょう。ともかく飛行機は、バンコック国際空港に到着しました。空港の案内や案内板はタイ語と僅かな英語に変わります。人々の衣服も半そでなど、常夏スタイルが増えて見え、南国に来たなという実感が湧いてきました。そう、『微笑みの国』タイ国の大地に足を踏み入れたのです。

 ここまでのうちでのバリアは、書類が多く、しかも字が小さいこと。案内放送も少なく解りにくいことでしょう。

 飛行機に乗るとき、障害者は一般の乗客より少し先に入れてもらえますが、国内線と違い外国の乗務員に席を聞いても要領えなく、もたもたしていると後からの乗客に追いまくられ、疲れてしまうことです。とは言え、ここまでには大きなバリアは少ないと言ってよいでしょう。

第二章 バンコックに着いて

 バンコック国際空港には、タイの旅行会社のガイドさんが車で迎えに来ていました。彼はタイじんですが、日本語が話せるので助かりました。聞いてみると、日本に働きに来たことがあり、そのとき覚えたのだそうです。なお、ガイドさんには、運転手つきの乗用車がつけられています。タイ国は、観光に力を入れているせいか、ガイドの地位は比較的高いのではと思いました。

 バンコック市内のホテルに着いたのは、夕方です。ホテルは、高級ホテルではなく分相応のCクラスです。それでも23階建ての築5年とか言う小奇麗な建物です。周囲は、衣料品や果物の市場に囲まれていました。要するに、下町でしょうか?

 部屋は、日本のホテル(私が利用するホテル)とは違い、広々しています。ここを基点に5泊6日の楽しい旅が始まりましたが......。まさか、あんな事件に遭遇するとは夢にも思いませんでした。

 旅行にタイを選んだのは、この国が親日国家であり、日本と同様にお釈迦様を祭る仏教国であり、国民が戦争をきらう優しい人が多いことでしょうか。また、物価が安く、飲食や買い物が安く済むと考えたからです。さらに、タイ人の女性は、目がクリクリして可愛いし、男性も比較的小柄(こがら)で欧米人のように見下ろされるという感じがしませんしね。もちろん、この国は、貧困の人が多いのでスリやおき引きが多いこと、敬謙な仏教の信徒なので『子供の頭はなでるな』『お寺参りはきちんとした服装で』『仏像に手を出すな』『知らない人から者を預かるな』などきかされました。

 夕方、ホテルを出て食事でもしようと付近を歩きました。この辺の建物は、古い木造2階建てが大半を占め、その間にコンクリートの建物が散在しています。お店は有るのですが、日本のレストランと違い暗く、そのうえ何となく怖そうな雰囲気が漂っています。民家も電気を節約しているのでしょうか、薄暗いのが大半です。

 いっしょの女性が『ホテルに戻って食べよう』と言うので、結局そうすることにしました。後で聞いたことですが、街の小さな食堂は、私たち日本人は大切なお客さんですから『親切にしてくれ、しかも値段はびっくりするほど安い』とのことでした。

 ホテルには、中華とタイ料理のレストランがありました。どちらにしようかと思案の末、なれた中華料理にすることにしました。しかし、店に入って驚いたのは、メニューに日本語はともかく、タイ語と英語だけで中国語のメニューも有りません。中国語は、皆さんが横浜中華街の店でもわかるように『麺』『蛋』『焼』『煮』等の字でおおよその料理の内容が検討つきますよね。ウインドーメニューも無いとわかると、昔習った英語でやるしか有りません、『海老チリソース』は英語で何とオーダーしたら良いか?『どんな料理があるのか?』『酢豚』は?『焼きそば』は?大苦戦です。でも、ビールはほぼ同じビージュ、ウイスキーは『スコッチ』など英米やドイツのメーカー名で通じたことで安心しました。悪戦苦闘の末、料理は並びましたが、困ったことが起こりました。アルコール好きの私は、始めタイビールを飲んでいたわけですが、ウイスキーに注文を変えました。ボーイさんは注文どうりウイスキーとセットの氷それに水を持ってきました。『この氷はミネラルウオーターで作ったものですか?それとも水道水?』答えがありません。『水道の水は、あぶないから飲むな』と日本の旅行会社に言われていたからです。氷も水からできていますよね。封の切ってないミネラルウオーターをもらい『水割り?』にして飲みました。でも、こうして異国で食べる中華料理は、格別の味ですよ!

ここのところのバリアは、南国特有の深刻な問題です。すなわち、車道と歩道の間の段差が歴然と有り、視覚障害者にとっては、つまずいて歩けないことです。南国特有のスコールがあると、車道は川のようになります。歩道の切り下げをしてあると、歩道や床下まで川となってしまうということです。ですからホテルなど建物の入り口も階段を数段上るようになっています。このことは、前に行った台湾でも基本的には同じでしたが、バンコックは格段に厳しい状態です。

 ともかく、初めてのタイを歩き始めたのです。

第三章 暁の寺へ

 朝早く起きて窓の外を見ると、人口550万人のバンコックの街の西部地域が一望できました。低層の木造かなにかの古い建物の間に、ポツン、ポツンと高層の建物が目に入ります。おそらくホテルかデパートまたは高級マンションと思われます。ホテル周辺に人だかりが見えます。見に行くと、衣料品が所狭しと陳列され、沢山の買い物客が集まっています。衣類は新品もありますが、古着のようなものが多いようです。買い物客は、観光客ではなく、タイ人と思われます。日本のどこかの『ぼろ市』を大きくした雰囲気です。きっと、地方からの買出し客でしょうか?手にビニール袋に入れた食べ物を持っています。道路の横で食べている人もいます。ビニール袋の中に汁物を注ぎいれ、吸うようにして食べています。弁当の容器がないだけ、多くの買い物を持って帰れますからね?

 タイのあいさつ言葉は、『サワデー』と言います。さわやかですが、なぜか消臭剤を思い浮かべます。

 朝食は、洋食のバイキングです。見回すと、過半数が欧米人で、英語で話しあっています。アジア人もいます。中国人、韓国人、インド人などさまざまです。『このホテルもインターナショナルだな』と感じました。洋食と言っても、バイキングですからナイフとフォークのステーキではありません。焼肉、ウインナー、ハムエッグ、ベーコンなど、パン、トースト、それにコーヒー、ティーetcです。アジア人もいますから、チャーハン、おかゆなども有ります。デザートはパイナップルそれになぜかスイカ?パイナップルは日本のものと違いヒリヒリしませんから美味しく食べられます。メードさんは、タイ人が中心のようですが、言葉は英語です。異国のこと、昼食がおぼつかないので、たらふく食べ寺院観光に行くことにしました。

 まずここで皆さんにお断りしておきたいことがあります。それは、私は無宗教、すなわち、特定の宗教団体には入っていませんし、政治的にもノンポリだと言うことです。したがって、仮に文中での説明で不穏当なことがあっても、タイ『他意』は有りません。

 まず、ワットアルン、日本名『暁の寺』観光です。ワットとは、タイ語で『寺院、寺』のことです。このワットは、私のホテルからみると、バンコックを2分する大河チャオ、プラヤ川の対岸にあります。行くのには、この川を渡し舟で渡らなければなりません。船着場は、ごみごみしていて狭く、ちょっと足を踏み外せば桟橋から転落し、濁った川に転落です。ひどいところに来たと、慨嘆しました。それでもつれの者やガイドさんに助けられ寺へと行きました。日本人がやたら目に付きます。なまりから、なぜか関西の人が多いようです。

 『暁の寺』という名前の由来は、朝日があたるとキラキラと輝くところからつけられた名前だそうです。約250年前のトンブリ王朝のタクシンという王様が建てたのだそうです。高さは67メートルの尖った形の塔をはじめ何棟かの同様な建物が立ち並んでいます。お釈迦様の国には、不似合いな建物のように感じました。そうですね、ロンドンのウエストミンスター寺院そっくりな様相です。大英帝国の影響力のうえに建てられたと想像できます。回廊には、仏像がぐるりと安置され、途中まで登ることができ、そこからのチャオプラヤ川の眺望は素晴らしいといわれています。皆さんの中には,三島由紀夫の『暁の寺院』の舞台になったことでご存知の方もいるかもしれませんね?

 タイのような発展途上国を視覚障害者が旅することは、それなりの不便と危険を覚悟しなければなりません。車道には車が溢れ、信号が少なく,しかも猛スピードで走る車、車...。道路は、1歩路地に入ると未舗装で凸凹。渡し舟に乗る場所は細い足場がかかっているだけです。この国では、バリアフリーなどと言うは言葉が無いのかも知りませんね?しかし、このスリルも旅の醍醐味だと私は思うことにしています。

第四章 王宮周辺観光

 海外旅行で煩わしいのは、チップでしょう。タイへ行くに際し旅行会社に聞いたところ、『この国ではチップの慣習は無いので基本的には不要であるが、重い荷物を運んでもらうなど個人的にお願いしたときは必要である、そうでなければ特に必要ではなく、好意であげるとしても、ほんの少しでよい。』とのことでした。『ベットメイクなら5〜6バーツくらいでしょうか』と言うので、6バーツおいて観光に出かけました。部屋に戻ってみると、メイクはしてなく、お金も残っています。ツアーで同行した関西の空港に勤めていて、再度のタイ観光に来たと言うOLさんに聞くと『チップが少なすぎるのよ。50バーツ位にしたら...』と言われたので、次の日から50バーツ枕もとにおくと、きちんと掃除やベットメイクがやって有りました。東南アジアでは、このようなチップのことを『枕銭』と言い、少ないとなにもやってもらえないそうです。『勉強になりました!』なお、バーツはタイの貨幣単位で、昨年11月当時2.5円強、現在2.9円ぐらいですがね...。

 王宮広場には、欧米人、アジア人、黒人など世界各国の人々で溢れていました。ワットアルンでは日本人が多かったのとは大違いです。暑いので着ているものは半そでの軽装の人が大部分です。アメリカ人の男性などは半ズボンの人もいます。

王宮広場に立ち見回すと、いろいろの形をした屋根の建物が見えます。ルネッサンス風、中国風、中東風,タイ風などさまざまな様式が混在している状態です。歴史の中で、この国が揺れ動きながら現在にいたっているという苦悩を感じざるをえません。

 王宮は、1782年ラマ1世がこの地に宮殿や礼拝堂を建てたのが始まりで、以来、歴代の王様が宮殿などを次々建て現在にいたっていると言うことです。現在の宮殿は、ラマ5世時代に建立されたもので、ルネッサンス様式の建物に、タイ風の屋根を乗せた建物です。右側には、純タイ式建築のドウシット宮殿があり、王様の戴冠式に使われると言うことです。ここに来て驚くのは、建物のいたるところに金(きん)が使われていると言うことです。まさしく、黄金の国タイランドです。ドウシュット宮殿の金箔で描かれた壁画は、内容は解りませんが、見る人をリッチな気持にしてくれます。ここに入るには、靴を脱ぎ、帽子を取ります。ショートパンツやタンクトップの人は入れません。なお、タイ風建築とは、見た目は日本の切妻式の屋根の傾斜を大きくしたような建築様式です。

 ワットプラケオ、そう、有名な『エメラルド寺院』です。このワットは、王宮の敷地内にあり、ラマ1世により建てられた王室専用の礼拝堂だそうです。タイ国で最も格式が高い寺院と言われています。1782年に建立されたこの建物は、豪華さで驚かされます。軒には、金(きん)の鈴が下がり、風に揺れると『天上の音楽』を奏でてくれるそうです。天上の音楽とはどんな音色でしょうか?私は立ち止まって天上の音楽を聴こうとしましたが、風が私を見て吹くのを止めているのか、聞くことができませんでした。残念!内に入ると、正面奥にヒスイで作られた背丈66センチのエメラルド仏陀が安置されています。形式は、ちょうど、浅草の浅草寺に奉られている観音さまに似ています。しかし、薄暗く離れているので、私には見えません。見て拝むとご利益があるということなのに!

 この仏様は、紀元前43年前に北インドで作られ、幾多の戦乱を経てこの地に安置されていると言うことです。今はガードつきの警備で大事にされていますが、転々と歴史の裏側を歩いてきたのでしょう。数奇な運命のところは、私に似てる?流転を重ね横浜にたどり着いた私が似てる?と敬意を感じました。なお、この建物は、純粋なタイの建築様式で作られています。

 次に、寝ているお釈迦様を奉っているお寺、ワット・プラ・チェトウポンです。日本のお釈迦様は、奈良や鎌倉の大仏さま、京都のお寺の仏像を見たら解るように、座っているか、立っている姿をしています。タイ国のお釈迦様は、なぜか寝たお姿をしています。日本の釈迦は大乗仏教の教え、タイ国の釈迦は小乗仏教の教えに基ずくものとされていますが、私にはわかりません。この寝釈迦様は、頭から足まで49メートルの金無垢でできているのだそうです。(純金かメッキか知る由はありませんが?) 横に大きいため、お姿全体は見ることができません。ともかく、立派なお姿です。日本でもある宗教団体にありますが、これほどなものは見たことが有りません。

 昨年、青葉区の障害者団体で行った遊園地『ガリバー王国』のことが頭をよぎりました。もっとも、あれは、ガリバーの寝姿でしたがね...。

 お釈迦様の周りをまわってみると、賽銭箱が沢山置かれ、善男善女がひざまずいて拝み、何がしかのご寄進をしていました。足の裏には、黒地にびっしりと真っ白な真珠がちりばめられていました。このお釈迦様は、私たち観光客には珍しさを見せているようですが、タイの国民には信仰のシンボルとなっているように思われます。

 その他この王宮周辺には、多くのワット、博物館、美術館などが集まっています。博物館で日本を代表して?日本刀がありました。有名な刀でしたが、銘を忘れてしまいました。

 この地区は、平坦である上、よく整備されているせいもあり、日本の寺院に比べてもバリアが少なく思われました。皇居は入ったことが無いので解りませんが、日本の寺院は階段や段差が多く、そのうえ暗く、視覚障害者の泣き所ですものね。

第五章 バンコック市内観光

 今日は、バンコック市内観光に行きましょう。ホテルのロビーでつれの女性がプリプリ怒りながら私のところへ跳んできて『フロントの女性はけしからん!』という。『どうしたんだ?』と聞くと『私がフロントに行くと、お金をくれと言うの』。『日本語でか?』『コイン、コインと言うのよ』仕方なく私が行き『ハロー!』と声をかけると、女性は『コイン』とにこにこして応える。『ん......?』『何かへんだ』そこでハッと思った。『コインをくれ』ではなく『お出かけですか?』ときいているのだと。昔の英語は,『whaer is going』行くをゴウイングと濁るが、いま、とくに中国語の影響を受ける地域には濁音は無く『コーイン』というのだと誰かに聞いたことがある......。(ホントカナ?)意味がわかり、大笑い。でも、外国旅行は楽しいが、意思の疎通は難しいと痛感しました。これが、私たちの英語の能力ですから......。

 さて、外出です。これからは地理も解らない大バンコックをガイド無しでの歩行、すなわち珍道中の始まりです。バンコックは、東京や横浜にもまし、世界一車ラッシュのひどい街として有名です。ゆうなれば、ゴタゴタしている街です。トヨタ、日産、本田、すずきなど日本車、それも中古車が街をカッパしています。タクシーに乗り『マルマルシルクショップ、プリース』『do you anderstand?』『OK、OK』と運転手は応える。しかし、街をグルグル回りメーターを上げた後ようやく着く。こんな働き者の運転手がバンコックには多い。目的地に到着しないこともある。でも、『チップ、チップ』。これが、『OK、OK、Anderstand』の実態でした。言うならば、昔の東京や横浜にいた、『雲助』タクシーと同じでしょう。なお、タクシーの値段は、日本と比べ4分の1位と大変安くなっています.

 バンコックの繁華街は、市の中心地区に集中しています。シーロム、サイアムスクエアなどと呼ばれる地域です。そこには、東京で言えば、銀座、新宿、渋谷などでしょう。デパートなどショッピングのお店やレストランなどがひしめいています。日本の伊勢丹、東急、そごうなども店を出しています。夜は、艶やかなネオン街に変身する所でもあります。11月と言うのに、クリスマス飾りとジングルベルの音楽が流れていました。しかし、ネオンなど看板は、なぜか日本より少なく地味です。寿司屋さんもあります。回転寿司のの値段は、1皿日本円で換算すると80円からトロやうにで200円くらいです。日本人なら安いでしょうが、タイの人々には、高すぎるでしょう。店は、空いていましたが、生ものと生水はご法度です。当然やめました。

 繁華街を散策することは、歩道に段差があるうえ、人が多く、私には楽しいところでもある反面、厳しい地域でもありました。また、道路上には、高速道路やスカイトレインという高架電車が走り、うるさいのも難点です。

 お土産を買うためシルクショップに行きました。4階建ての大きなシルク専門店です。3階までが婦人用品、4階が紳士用品です。入り口を入ると、タイの若い女性が恭しくお辞儀し、そのうちの一人が、買い物篭を持って後について来ます。他の店でも同じですが、この国では、買い物に行くと、若い女性が買い物篭を持ってぞろぞろついて来るのが普通です。この店は、日本人観光客が多いらしく店員もかたことの日本語を話します。『このハンカチは安い』『このスカーフは日本の3分の1だ』とか『これを買うとあれをサービスする』とかうるさい。『このシルク地でドレスを作りませんか?あさってホテルまでお届けいたしますから。しかもお値段はこれこれですよ!』と日本よりかなり安い値段を示す。ちなみに絹のハンカチは、日本円で200円、スカーフは2000円位から売っていました。私は、ある事情により沢山買うことができなかったので、ほどほどに買い物をし、あとは逃げ回っていました。

 タイ国へ行って、たった一つ役に立つことをしました。と言うのは、4階のティースペースでぼんやりしていると、女の店長さんが寄って来て『日本人向けの店内放送の原稿を作ってください』と言われ作ってあげたことです。店を出る前に、その放送が流れたことは、良いバンコックの思い出です。お礼にトロピカルジュースをご馳走になりました。

 タイ国へ行ったらタイ料理を食べないと、行った価値がありません。タイ料理の店にも行きました。かなり広い専門店でした。辛いのが苦手な私も勉強のつもりです。特殊なものは避け、代表的な料理『タイスキ』をオーダーしました。タイスキと言うので、タイ風すき焼きかなと思っていると違いました。えび、いか、たこ、白身魚、肉などと白菜、チンゲンサイなどの野菜を真中に穴のあいた鍋で薄味に煮て、それを特別に作られたというお汁に、適度の辛さの香辛料を入れ、その汁をつけて食べるものでした。日本の『寄せ鍋』に似ています。辛子は、激辛、中辛など何種類かに分かれているものを、好みにより調合してつくります。香料も同じ理屈です。これなら、辛いものが苦手な私でも美味しく食べられます。食事は、お汁の中にウドンやご飯を入れて食べるのだそうです。タイ米は避け、うどんにしましたが、ラーメンに近いものでした。良かったのは、タイ人の若いメイドさんが、鍋の世話や辛さの調整をしてくれることです。これなら、目の悪い私でも口をきいていれば良く、コープクン、コープクン(ありがとう)です。飲み物は、タイのお酒が無いということでしたので、氷と水を避けてタイビールオンリーで飲みました。値段は、飲みすぎのせいか、覚えていません。

 市場にも行きました。街が整備されていないせいか、ごみごみしていて、敷居が高く感じました。せめてアメ屋横丁ぐらいかと思ったわけですが、昔のアメ横でしょうか。孫におもちゃの自動車を買っただけで早々に退散しました。孫に渡したところ、『ああ、アメリカのブーブだ!』と喜んでいましたが....いろいろな物を見た感想として、良い物は無いと思いました。

第六章 ナイト イン バンコック

 タイ国というのは、不思議な国です。寺院などは、金(きん)ピカな一方、国民は外食も控え米飯に塩や汁をかけて吸うように食べたり、着ている衣服もお古を買い着ています。日本のテレビに出てくるような豪邸に住み、外国産の高級車に乗って旨い物を食べていると思われる人は、何割もいないようです。ガイドさんが言うには、『日本はすべての人が中流』だけれども、この国の人は、『すべて下層』なんですよと...。気候も良いし、国土も広いのに...。政治が悪いのか?何が足りないのでしょうか?お釈迦様が寝ているからか?理由は、私には、わかりません。

 せっかく遠い国タイまで来たのですから、『だまされてみよう』とスリルを求め夜のバンコックの街へ出かけることにしました。タクシーに乗り『デリシャス シーフードショップ プリース』『OK OK』このようなとき運転手から『チャイニーズ?オア、ジャパニーズ?』と聞かれるのが普通です。日本人は当然『ジャパニーズ』と応えます。運転手は、『いいかも』だと思うのでしょうね。タクシーは、ネオンの裏路地にあるシーフード店の広い庭へ連れて行ってくれました。バンコックは11月は乾季であり、一番暑い季節ではありませんが、それでも昼間は33度くらい有りますから、夕方から外出する観光客が多くいます。夜は20度くらいで快適です。えび、かに、いか、ほたてなど高級品を注文しました。それをテーブルの上で焼いて食べるようになっています。若いタイのボーイさんが焼いてくれるのです。出てきたえびやかにを見て『びっくり!!。』貧乏人の私などは、日本では見たことのないような大きさです。焼いてもらい食べたときの美味しさ、タイでの一番のご馳走でした。ボーイさんから何とか言う魚の丸焼きを薦められたので、それも食べることにしました。日本では食べたことのない、白身の美味しい魚でした。魚類と何がしかの野菜を食べ夕食としました。飲み物は、タイ国に敬意を払い、タイビールです。ちなみにお値段は、一人日本円で9000円くらいでしたから、お釣りはボーイさんにチップとしてあげました。日本ならこんな上等な魚で食べて飲んだら3万円位は取られると思いました。南国の星を見ながら(私には見えませんが)美味しいシーフード!腹いっぱい!旨かったなと思い出されます。

 旅行するとき、特に海外旅行するとき、すべての行程にガイドの付いたツアーを選ぶ人がいます。効率的に観光地を周ってくれ、食事や買い物。ナイトショーなどを見せてくれますが、現地の人と接することができません。私は、そんな拘束的な旅行より、現地の人々と交流できる自由な旅行が好きです。今回も、飛行機とホテルはツアーですが、あとは、必要なときガイドを頼むようにしています。この方が、ロスが有っても、愉しい(たのしい)旅ができるように感じています。『旅は夢を膨らませ、心を開かせてくれます』から...。

 『サワデー、サワデー』酔った勢いも手伝ってナイトクラブ(スナックカも知れない)へ行くことにしました。私は、お酒が好きですから、一時期よく多くのスナックに通っていましたから、このような店もあまり抵抗なく入れます。店は、二重扉になっていて、入り口にボーイさんがいます。『お金は2000バーツしか持っていないが飲ませてくれるか?』と下手な英語で聞くと、『OK、OK』。(こんな返事は当てにならないが...)中には、タンクトップのタイ女性が数人いました。アメリカ人らしい客も数人いました。ソファーに座ると、小柄で目のクリクリした若いタイ人のホステスがおしぼりを開いて渡しながら、片言の日本語で『ナニノム』ときく。『ワイン』と応える。ワインを飲んでいるうちに緊張がほぐれ、気分が良くなってきました。彼女たちは、なぜか胸のところにナンバーを付けています。きくと彼女は、名前を『アンリー』といい、横浜の中華街にあるというタイ料理店に勤めていたことがあるとのこと。彼女のナンバーは7でした。横浜をキーにして雑談になりました。『歌はできない』とゆうと『ダンスしよう!』といい、手を引っ張り、店の片隅の少し広いところに連れて行かれそこでダンス?らしいことをはじめました。ぴったり体をつけると、アンリーは、見かけより胸が大きく感じました。『コンヤデートシナイ?』と耳元でささやく。『怖い人がいるからダメ』と応える。『ホテルとルームナンバーは?』『忘れたよ』...。『胸のナンバーは何?』『貴方に呼んでもらうためよ』なるほど、『ヨリドリミドリ』か?と感じました。アメリカ人の一人が、ホステスと手を取って奥にきえたようです。日本でもタイの女性があちらこちらの風俗店で働いているそうですが、性を売り物にしている人も少なくないようですね。本国においても観光客を相手にしていることは寂しいことでしょう。かれこれ1時間ぐらい飲んで店をでました。私などは、清く正しく生きていますが、若い男性同士なら沈没だなと思いました。

 また、タイ料理を食べたくなりました。どなたか、中華街付近でタイ料理店をご存知でしたら教えてください。

 ちなみに料金は、なにも食べずに4000バーツ取られました。

 タイの夜がふけてきました。遊んでいるのは、先進国の人だけに思われます。タクシーで帰る途中、幼い子供が手を合わせながらそばに寄って来て、何か言いながら物乞いする姿を見てしまいました。お釈迦様は寝ていて知らないのではと、何となく空しさが沸いてきました。

 次は、歴史の都アユタヤに行きましょう.

第七章 アユタヤ、チャオプラヤクルーズ

 大都会バンコックを高速道路で離れると、水田地域になります。南国らしく、家の周りに椰子の木やバナナの木で囲まれた住宅、それに昔社会科の教科書で見た高床式住宅が見えます。また、象を飼育している農家も有りました。

 バンコックから北へ約80キロ、チャオプラヤ川の支流に囲まれたところにアユタヤという町があります。そこは、1350年から1767年まで417年間アユタヤ王朝の都が置かれたところです。アユタヤは、内陸にありながら、チャオプラヤ川の水運を利用して栄え、インド、中国、ヨーロッパ諸国などとの貿易隆盛を極めたそうです。日本も、徳川時代に御朱印船で貿易を行い、山田長政が日本人町を開きました。1767年ビルマ軍に陥落させられ、今は一部復興してありますが、大部分は遺跡として保存され、世界遺産にも登録されています。

 アユタヤの宮廷や寺院の遺跡は、広大なむきだしな土地の中に、天を仰ぐように剥き出しの肌をさらしています。なかには、イタリヤのビサの斜塔のように傾いているものも有ります。ガイドさんにきくと、よく焼いたレンガで作られているので長年の風雪にも耐え、当時の面影を残していると言うことでした。

 びっくりしたのは、仏像の多くに首がないことです。理由は、何年か前にこの地域に「幽霊がでる」という噂が流れたため人が近づかない時期が有ったそうです。その間に幽霊?が首を切り取り、アユタヤの時代に持ち帰ったのだそうです。きっと、世界のどこかの骨董品商で高い値段がつけられ、売られているのかもしれません。

 中国の援助で再興されたという宮殿のベンチで休んでいるとき、遠足か何かできたと思われる女学生の一団が通りました。彼女たちの服装は、清楚で、きちんとしています。ガイドさんに『日本の女子学生は、ルーズソックスを履いているがどう思いますか?』と聞いたところ『だらしなく感じるよ』『あれは亡国のシグナルだよ』『日本人は、経済的には恵まれているが、精神的には寂しく感じられるよ』『私は、日本には住みたくないよ』とのことでした。

 山田長政(ながまさ)のいた日本人町は、一時は8000人にも及んだそうですが、今は記念碑を残すのみで、当時を偲ぶことはできませんでした。しかし、300年余り前、異国のこの地に日本人が住んでいたことは、旅をしている人々に郷愁を与えずにはおきません。

 帰路は、チャオプラヤ川をクルーズしながらバンコックまで約70キロ船旅です。川はお世辞にも綺麗とは言えませんが、流域に入り口を川に向けたタイ風の建物やアメリカ風の教会らしい建物、そう暁の寺も見ることができました。観光客船は、満々と水をたたえるチャオプラヤ川をゆったりと下って行きます。『船には案内放送があるだろう』『何語かな?』と考えましたが、ただ、アメリカ的な音楽がかかっているだけでした。琵琶湖の遊覧船『ミシガン』が琵琶湖の案内をしなくて、アメリカの音楽ばかりかけていて、腹が立ったことを思い出しました。

 船から見る夕闇迫るバンコックは、旅の思い出に花を添えてくれたようです。

 この旅日記は、これで終了しますが、読んでいただいた皆さんがタイへ行かれたとき失敗しないように、私の大失敗談を内密にお知らせしましょう。

 それは、バンコックに着いて3日目のことです。
街を観光して疲れたので、東急デパートで一休みして買い物でもしようかと考えました。のどが渇き、水が飲みたくなりました。日本なら、喫茶店に入り水を飲めばよいことです。しかし、南国タイでは、水は飲めません。水当たりが怖いから飲むわけにはいきません。4階でミネラルウオーターを買いました。レジで財布を広げ、店員にお金を見てもらいながら払いました。
ホテルを出るとき、バンコック銀行で、お金をお土産を買うために沢山両替して持っていたからです。

 3階にエスカレーターが着く直前、前に乗っていた男性が急に落し物を拾うように座り込みました。私は、彼の上に『ごめんなさい』と言いながら覆いかぶさりました。起き上がり、我に返るとズボンのポケットに入れておいた財布がなくなっていました。また、私の前後にいた人たちも居なくなっていました。3万バーツとVISAカードがスリに掏(す)り取られてしまったのです。デパートの助けを借り、日本へ国際電話をかけカードを止めましたが、現金は、財布ごとなくなってしまいました。生まれて始めての経験ですが、この名演技『泥棒さんは千両役者』だなと苦笑しました。被害届も、所轄の警察ではタイ語ができない私ではだめですから、タイ国国際警察(インターポール)へ行きだしました。現金とカードは、旅行保険の対象外だそうですから補填もしてもらえません。結局、現地人の3〜4月分にあたる現金はなくなり、カード不安に怯えています。

 どじな私のため時間がなくなり、砂浜が美しく若い人達に人気のパタヤビーチなどへは行けませんでした。残念...!

 旅は、とくに、まだ見ぬ国への旅行は、人の心に夢を与えてくれます。『旅はロマンだ』と言われる由縁です。また、『障害があっても、心の持ちようで、夢追いの旅ができるんだ!』と言う自信が生まれました。

 成田の灯り(あかり)が窓から見えてきました.

 こんな訳で、物としてのお土産は、あまり買えませんでしたが、『海の向こうから見た日本は......』『よい国だ』『日本人に生まれて良かった!』というお土産が私の胸いっぱいに膨らんでいます。

 おわり


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