銀河

16

「トミさんが倒れました」
 という看護婦の陽子さんからの連絡があったのは、四月に入って間もなくの午後のことだった。トミさんが楽々園で心筋梗塞の発作を起こして倒れるのは、昨年の秋以来二度目のことになる。昨年秋の発作の後、トミさんはかなり弱っていた。食事の量も前に比べて少なくなっていたし、歩くのもままならずに、車椅子を利用していることが多かった。

 洋が、静養室に運ばれたトミさんのもとを訪ねると、トミさんは、まだベッドの上で苦しんでいた。
「助けて、助けて!」
 トミさんの声は悲鳴そのものだった。洋には、苦しむトミさんの姿が、すがる物もないまま助けを求めつつ水中に沈んでいく溺れる人のように思われた。そのトミさんの傍に、なすすべもなく立ち尽くしているのは辛かった。看護婦の陽子さんが、強心剤を注射したが、効き目はあまりない様子だ。発作は、十五分ほども続いて、ようやく治まった。

 洋は、往診に訪れた田所先生に、トミさんの容態を尋ねた。
「心臓の筋肉がボロボロなんだ。去年の秋以来、二度目だろう。ああやって、何度も発作をくり返すうちに弱っていく。いつ逝くかわからない。もうホームで看るのは難しいだろうから、病院に移そう。家族に連絡しておきなさい」
 田所先生は洋に命じた。
「もうホームには戻れませんか?」
 と洋は先生に尋ねた。
「難しいかもしれんな」
 と答える先生の声は重かった。
 トミさんはその日の午後、陽子さんが運転する車で田所先生の病院に運ばれた。ストレッチャーで運ばれるトミさんは、眠っているのか、一言も発しなかった。
 松武兼吉さんが、昨年の秋と同じく玄関に見送った。
「もう帰ってこれんな」
 と、兼吉さんがボソリと言った。兼吉さんは玄関を出て、いつか自転車の練習をした前庭から雑木林の間に消えていく車を見送っていた。

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