現在の位置:トップ > 目次 > ウッチャンの落書きストーリー第9回

第7話

この物語の主人公の名は、ウッチャン!中途失明の視覚障害者である。
現在は、世間と言う大学で、生活社会学を学ぶ学生なのだ。

第七話 大きなお世話と想うなかれ

※このページには、プロローグと5つのエピソードとエピローグがあります。Tabキーを押して、1つずつ飛ばすことができます。
<プロローグ>

<プロローグ>

ラポール送迎のバス停のイラスト

視覚障害者が一人で歩いている。
そこへ、手助けできればとだれかが声をかけた。
その時の状況にもよるが、その行為を受けるか、断るか二つにひとつなのだ。
どちらを選ぶか、道に迷っていても、断った方が安全だと考えてしまうことがあっても不思議ではない。
障害者と知って近づいてくるたちに、悪い人間もいると考えてしまう事もある。
悲しいかなそう想ってしまう事件が起きているのである。
ぞんな世の中にあって、声をかけてもらい、それを断ることを知らない視覚障害者がいる。
それがウッチャンなのだ。

<エピソード1>

京急の改札で

度胸があるわけでもなく、冒険心を持っているわけでもない。
ましてや、すべての人を信じる心を持って生きている人間でもない。
どちらかと言えば、物事を斜めに見るひねくれた性格なのである。
だとすれば、ほんとに親切で声をかけたのかと想うのが普通なのだが、なぜか断れないのだ。
ついつい目的の場所を言ってしまう。
たとえば、「京急の電車に乗りたいのです。」と、つい言ってしまう。
「誘導しましょう。」なんて返事が返ってきたら、「よろしいんですか?ありがとうございます。助かります。」と応えてしまう。
あと数メートルで、改札口という所で、「どちらに、行かれますか?」と聞かれ、(見りゃわかんだろ)とおもいながら、「改札を出ます。」と返事をする。
そして、ほんの数メートルだが手助けしてもらう。
階段を使って駅のホームへ、あと数段でホームに着くってときに、「どちらへ?」と、声をかけられる。
これまた、(見りゃわかんだろ)と想いつつ、「電車に乗ります。」とこたえる。
またまた、その手助けを受けるウッチャンなのです。
しかし、おもしろいものでその逆もある。
声をかけられ、(助かったぁ)と想ったら、「そのまま、まっすぐ行けば階段ですよ。」とか、
誘導ブロックを示され、「これにそっていけば、だいじょうぶですよ。」
と言われ、(エッそんなぁ、誘導してくんないのかぁ)とがっかりしながらも、「ありがとう。」と応えるしかない事もある。
そんな出会いのおもしろさの中、ヒトの心配より、自分の心配をしてほしいおじさんやおばさん、子供たちから今時の若者たちまでやさしさと大きなお世話が、ごちゃまぜになって、ウッチャンの前に現れる。

<エピソード2>

新横浜で関西弁の夫婦と

(マイッタナァ)と困ってしまうのだが、なぜかうれしくなる出会いが今年もあったのです。
もしかしたら阪神タイガースが優勝するかもと、世間が盛り上がりはじめた頃の事でした。

7月のある日、新横浜駅での事。
駅構内をバスセンターに向かって歩いていたウッチャン。

そんなウッチャンの、前方から夫婦らしき二人の会話が聞こえてきた。
それも、バリバリの関西弁なのだ。
(オッ、関西弁かぁ!げんきだな、まぁ阪神も調子がいいから当然かな。ハハハ)などと想って歩いていた。
前へ進むウッチャン、前方から来る二人。
普通ならすれ違うだけのことなのだが、この二人大きなお世話をイヤイヤ、やさしい二人は、ウッチャンを、見かけ声をかけてきたのだ。
おじさんが、「にいちゃん、だいじょうぶかどこへいくんや。」それに「ありがとうございますだいじょうぶです。」と応えるウッチャン。
「そうかぁ、それでも人がぎょうさんおるからあぶないでぇ。いいからどこへいくんや?」と聞かれ、
(言ってもわかんないよ)と思いながらも、「バスセンターまで。」すると、「バスセンター?わからんなぁ。」と返事、そこにおばさんが、「バスに、乗るんか?どこへいくんや。」と聞いてきた。
(言ってもわかんないって)とおもいながらも、「ラポールってとこなんですけど。」と応えるウッチャン。
案の定おじさんが、「ラポール?なんやそれ。」と聞いてきた。
(これには、ラポールの説明まですんのかよ)と想うウッチャンなのだが、応えないわけにはいかず、「障害者が利用できる施設なんですけど。」と応えた。
すると何を想ったのか、「ヨッシャ、そのなんとか言うとこまではムリやけど、バスんとこまで連れってってやる。バスんとこがどこか探してくるからまっとき。」と、言い出したおじさんにあわてるウッチャン、「アッ、ほんとうにだいじょうぶですから。」と返事をしたのだが、そこへ、おばさんが、「いいから、うちの人にまかせればえぇんや。」と言った。
そして、「あんた、はよういっといで。」とおじさんに声をかけた。
あせるウッチャン、探しに行こうとするおじさんをなんとか止めて、いつも通っているので行き方はわかると説明した。
すると、「そうかぁ、それでも一人で行くことあらへん。わしがついてってやる」とおじさんは言う。
確かに、誘導してもらった方が安全だし早く行けると考えたウッチャンは、「すいません、お願いします」と言って、簡単に誘導の仕方を説明した。
おじさんもおばさんも真剣そのもの、「右のひじにつかまらせてもらえばいいだけなんです。」の言葉に、
「あっそう、どうぞ。」で、いつもは済むはずなのだが、「なるほど、こうか。なんでこうせなあかんのじゃ?」と聞いてくる。
二人は真面目だし、一生懸命なのだ、しかし、バリバリの関西陣、
「にいちゃん、このやり方は日本のどこでも同じか?」と、おばさんが聞いてきた時は笑いをこらえて、
「もちろんです。」と応えるウッチャン。
サイコーだったのは、「ええこと教えてもろうたな、こう言うの覚えたことで、これからは、勇気をだして声をかけられるってもんや。」と、おじさんが言った。
これには、堪えきれずに笑いながら、「自分に声かけるのに、勇気をだしたんですか?」と、尋ねると、
「エッ、そうやなぁ。にいちゃんみかけたら、なんや、声かけとったなぁ。」と、おじさんのひと言。もうたまりません、心の中は大笑いのウッチャン。
そんな会話をしてやっと歩き出す三人でした。

そして、バス乗り場に到着。
すると、おばさんが、「あんた、バスの時間は?」それに、「そうやなぁ。」と応えながら時間を確かめるおじさん。
確かめながら、「アーア、出てしもうたばかきや。」とおじさん。
それを聞いて、心の中で笑いながらため息をつくウッチャン。
おじさんの言葉はつづく、「ナンヤ、次は10時30分まであらへんでぇ。
にいちゃん、けっこうまたなあかんなぁ。」その言葉に「ここで待つのは、なれてますから。」と返事をするウッチャン。
すると、「そうかぁ、しかしなんやなぁ。30分おきとは、東京も以外と不便やなぁ。」とおじさん。
これには、「ここは、ヨコハマジャー。」とつっこむウッチャン、もちろん心の中で。
言葉では、マァ、なれてますから。」と言いながら笑っていた。
「後は、バスに乗るだけなんやろ、ここまで来れば安心や。なっ!にいちゃん。」とおばさん、「ハイ。ありがとうございます。急いでいたとか、待ち合わせとかあったのではないですか。」と聞くウッチャン。
「ハハハ、気にせんでえーで、急ぐ旅じゃあらへんから。」と応えるおじさん。
「そうですか、そう言ってもらえるとホットします。ありがとうございました。」
と礼を言うウッチャンに、「きにせんでいい、よけいなお世話しただけやからな。」と笑いながら応えるおじさん。
「とんでもない、助かりました。」と言葉を返すウッチャン。
「そう想っておもうてもらえると、うちらもうれしいわ。ナァアンタ。」とおばさん。
「そうやそうや、気にせんでえー。」とおじさんの言葉。
「ほなら、うちらもいこうか。」のおばさんの言葉にうながされるようにおじさんが、「にいちゃん、きいつけてなぁ。」とウッチャンに声をかけた。
そして、駅へと戻る二人。
去っていく二人の背中に、あらためて「ありがとうございました。」と声をかけたウッチャンでした。

<エピソード3>

新横浜で修学旅行の生徒たちと

新横浜では、まだまだある。
修学旅行の帰りなのか、来たのかわからないが、生徒の一人に声をかけられ、
「わかるからだいじょうぶ。」と応えたのだが、その時はもう遅い。
「どうしたの?」と言いながら、またひとりまたひとりと、ウッチャンの周りに集まってしまっていたのだ。
こう言う時にかぎって、リーダーシップを発揮するガキ、いやいや、する人間はいるもので、あっと言う間にサガセ!ってなってしまったのだ。
バス乗り場を探しに行った生徒たちが戻ってくる間、残ったメンバーの話を聞いていると、ウッチャンは、道に迷ってしまった視覚障害者にされてしまっていたのである。
こうなると成り行きにまかせるしかない。
だが、さすがは子供たち、すばやいのだ。
散っていくのも早いが、見つけて戻ってくるのも早い。
そしてウッチャンは、一人二人どころではない、5〜6人はいるだろう、中学生か高校生らしき集団に連れられ、ラポールの送迎バス乗り場へ。

関西のおじさんとおばさんの時とは違い、時間に間に合ってバスには乗れたのだが、ワイワイガヤガヤ状態で、どこから来たのか聞くことすらできなかったのです。

<エピソード4>

厚木のバスので小学生の集団と

それからもう一つ。
久しぶりに、厚木にでかけた時のこと。
バスに乗り込むと、小学生らしき集団のチトウルサイと想うほどの会話が聞こえてきた。
乗降口のそばに立っているウッチャン、ツリカワに捕まって、騒がしい方向へ目をやり、(ウルセェナァ)と想っていると「空いている席があるから座りますか?」と、子供が、声をかけてきた。
「エッ、ありがとう。ココかなぁ?」と応えるウッチャン。
子供に、手をひかれ移動、一歩二歩進んだ時、(マサカ)と想ったがすでにおそし。バスの一番後方に連れて行かれ、すぐそばには小学生の集団。

結局、子供たちの騒々しい会話のウズの中に、ウッチャンは最後までいることになる。
バス停に着くたびに、(おまえらここで降りないのかぁ)と想いつつため息をついていたのである。

<エピソード5>

駅の券売機の前で

最近は、パスネットなるカードができて、キップを買わずに電車に乗るようになった。
以前は、券売機の前までくると、声をかけてくるおじさんやおばさんがいる。
うれしいことなのだが、「ちょっと待ってね、メガネかけないと見えないから」と言われ、ニガ笑いして待つことになる。
困るのは、メガネをかけてもわからず、「私ではだめだから、他の人に見てもらうから。」
と言って、周囲の人に声をかけて、案内図を見てもらっている。
「わかったよ。」と行って戻ってくる。
「キップも買ってあげる」と券売機の前。
簡単なようで、難しい購入方法。うまくいかず、そばにいる人にどうしたらいいか聞いている。
(まいったなぁ)と想う以外の何物でもない状態。
自分がだれかに道を尋ねないと迷ってしまう状態なのに、「どこへ?」と、声をかけてくる。
行き先を聞いてきたから応えると、わからない。当然すぎる結果なのだ。
(まいったなぁ)と想うしかないウッチャン。
それでもうれしいのだ、感謝をこめて、「ありがとう」の思いと、言葉を返すことを忘れない。
なぜならば、白杖に気づかないなら、あきらめるしかない。
だが、気づいているはず、それなのに、杖を蹴るは、踏むは、曲げるは、最後は謝りもせず、逃げるように行ってしまう。
そんな体験は、日常茶飯事の視覚障害者。

<エピローグ>

エピローグ

そんなこんなの人の流れの中に、ウッチャンを見かけた。
その存在に気付いた。
ほっとけないと感じた。
身体が自然に動いて、声をかけていた。
この行動と思いをどう感じるか?
親切と想うか、大きなお世話と感じるか?

社会の進歩が生み出すもの、それが障害者にとってもより良いものであってほしい。
だがそれよりも、もっと広がってほしいものが人の心の中にある。
その広がりがなくては、障害者にとってのより良い社会の進歩は、遅れてしまうのではないか。
随分昔、小さな親切運動なんてのがあった。
だれかが声を上げないと生まれないやさしさより、(まいったなぁ)と想うのだが、自然に生まれるやさしさの方が、今のウッチャンには必要なのである。
死語になったとまでは言わないが、最近聞かれなくなった(小さな親切)と言う言葉。
それに引き替え、脈々と残りつづけている、(大きなお世話、余計なお世話)と言う言葉。

(小さな親切、大きなお世話)があるのならば、(大きなお世話なくして、小さな親切はなし!)なんて考えてもおかしくなない。
思い出すと思わずニガ笑いしてしまう、そんな出会いのチャンスを、ウッチャンは逃したくないと想っているだけなのだ。

第9回終わり