洋の夏休み
−9−

「洋、彼女から電話や」
 猫山の声で、うたた寝をしていた洋は目覚めた。

 啓子ちゃんが来る!

 眠っていた洋の胸は一瞬にして目覚めて高鳴った。まだ宿も決めていない。こ れは大変だと思いつつ、慌てて受話器を取った。
「洋さん、元気?」

 懐かしい啓子ちゃんのおっとりしたちょっと甘えるような声に、洋は身震いす るほどの喜びを感じた。

 洋は、昨日の出来事や、これまで毎日、啓子ちゃんのことを思って頑張ってき たことを告げたかった。
「元気だよ、こっちに来る予定は立ったの?」
と洋が尋ねると、
「それなんだけど、実はね、急用ができて、そっちへ行けなくなっちゃったの」

 そう告げる啓子ちゃんの声は、いつになく沈んで暗かった。

 洋は心の中で、ウーンと唸った。何とか受話器を握り直す。
「しかたがないよ。休みが明けたら、また会えるだろうから」
と言うのが洋には精いっぱいだった。
「ごめんなさい。施設に戻ったら電話ください」

 この、よそよそしい啓子ちゃんの言い方が、洋の胸をさらに刺した。どうした のかな、もう駄目かなと思う。
「それじゃ、さよなら」
と啓子ちゃんは向こうから電話を切ってしまった。

 その啓子ちゃんの態度には、いやなことは早く済ませたいという思いが、あり ありと感じられた。

 洋は受話器を置くと、その場に仰向けに寝転んだ。体から力が抜けていた。ど うして啓子ちゃんは急に来られなくなったのか。刺された胸が痛み、そこから悲 哀が沁み出してきた。涙が洋の目尻から畳の上にポタポタ流れ落ちた。

 三十歳近くなる今日までに、洋はいくつか恋を経験していた。たとえば、洋に は高校時代から好きだったユミという女の子がいた。ホッソリとした体つきの、 学校の成績が良くて、ちょっと澄ました感じの女の子だった。洋はユミに夢中だ った。次第に落ちていく視力で苦心惨憺して何通もの手紙を書き送った。

 高校を卒業すると、よく一緒に酒を飲んだ。小ぢんまりした酒場の止まり木に 腰を下ろして、最近読んだ本のことや、観た映画の話をした。洋は、ユミが好き だという作家の小説を片っ端から読んでは、次に会う機会にその話をした。

 しかしその頃の洋には、どうしても愛の告白ができなかった。

 多くの男たちが、ポケットから小銭を取り出すように気軽に口にする、「好き だ」とか「愛してる」という言葉をユミに向かって語ることができなかった。落 ちていく視力が、洋の心を強く押しとどめていた。

 それでも二人は会うごとに親しみを増していった。

 ある夜、ユミはこんなことを洋に打ち開けた。
「私、ずっとある人とつき合っていたの。一緒に三泊四日の旅行にも行ったわ。 でも、彼がね、もう終わりだって言うの。別れようって。今夜はずっとつき合っ て、お酒をいっぱい飲みたいの」

 このユミの身勝手な言葉に、洋はしたたかに誇りを傷つけられた。しかし、飲 んでいた酒の酔いと、ユミが自分にこんな大事なことを打ち明けてくれた、自分 はユミの心をつかんだ、という思いが、洋を絶望させずに有頂天にさせた。

 しかし、ユミが二十歳を過ぎて東京の大学に進学して間もなく、別れの日がや ってきた。それは、洋がユミに会いたくて郷里から上京した日の夜のことだった。

 三月にユミが上京して、三か月ぶりの再会だった。それ以前にも、洋はユミに 会うために上京しようとしたが、ユミはなぜか、洋の上京を受け入れなかった。 何度か電話口で、上京したいという洋を、
「慣れない生活で、忙しいから」
と拒んだ。

 そのユミが、ようやく洋との再会を受け入れた。年を追って視力が落ちている こともあって、不安を感じつつの上京だったが、ユミに会える喜びは、洋に何も のをも怖れさせなかった。

 洋にとっては待ちに待った再会の日の夜、ユミが案内してくれた酒場は込んで いて暗かった。洋には、天井から下がっている豆電球のような照明の弱々しい光 以外、何も見えなかった。目の前にいるバーテンの顔も、隣にいるユミの姿も見 えなかった。自分の目の前のカウンターに置かれたグラスさえ、手で触れていな いとその在り処がわからなくなってしまうありさまだった。洋は、そんな暗い酒 場に入ってしまったことを悔いつつ、酔えない酒を飲んだ。久々にユミに会えた 喜びは消し飛んでいた。こんな暗闇同然の中にいては、災難に遭った亀のように 手も足も出ない、何とか早くここを抜け出さなければという思いが、洋を寡黙に した。

 そして、いつもは他人の噂話などをして、けっこう饒舌なユミも、なぜかその 夜はほとんど話をしなかった。それがなおさら洋の焦燥感を煽った。

 そんなユミが突然、
「見て、このピーマン赤いわ」
と言ったとき、洋はハッとした。

 どうやらそれは、つまみを載せた皿に載っているピーマンのことらしかった。 ユミは、自分がこの暗い酒場の中で何も見えていないことを知らない。そう思う と、洋の胸はチリチリ痛んだ。

 洋は黙っていた。そのときの洋には、口にできるどんな言葉もなかった。
「赤いね」
と言えば嘘になる。

 しかし、愛する女の前で、女には見えている赤いピーマンを、

「僕には見えない」
と言う。その、いまなら何のためらいもなくサラリと言ってのけられるしごく短 い言葉が、そのときの洋には言えなかった。

 時がたつにつれて、酒場の中は騒々しくなっていた。酔いにまかせて、大声で 語り合う若者たちの興奮した話し声が、押し黙った二人の周囲に飛び交っていた。

 洋は何か別の話をしようと思ったが、洋の口から言葉は出てこなかった。洋は 焦った。並んで椅子に掛けている二人の間が、どんどん遠ざかっていくのがわか った。
「出ましょうか」
とユミが言った。

 それは、一滴の酒も呑んでいないような冷たく乾いた声だった。

 カウンターを離れ、レジで勘定をして店の外に出るまで、二人は終始無言だっ た。店を出て、暗く狭い階段を一階に向けて下りた。その途中、洋は階段がU字 型に折れ曲がっているのがわからず、壁に向かってぶつかった。そのときだった、
「駄目だな」
と言うユミの低い呟きが、洋の背後から聞こえた。

 この言葉に洋はしたたかに打ちのめされた。建物の外に出ると、ユミは、
「私、これで帰るから。サヨナラ」
と言って、洋に背を向けた。
 そのときのユミの表情は、洋には全く見えなかったが、その声の、突き放すよ うな冷たい響きだけは、いまだに洋の記憶にはっきりと残っている。

 部屋にじっとしているのが辛くて、洋は小屋を出た。ユミとの恋が破綻して以 来、女友達ができても、洋は、身を引いて相手の様子をジッと見ていることが多 くなっていた。そして、相手が洋から離れていこうとすると、すぐに諦めてしま うのが常だった。

 渓流沿いの道を何度か行ったり来たりして小屋に戻ると、猫山が、
「洋、外に出よるときは、ワシに言っていかなあかんやないか。電話きたらどな いする」
と洋を叱った。

 この言葉が、洋の心の緒を断ち切った。
「うるさい、この馬鹿!」
と洋は怒鳴って二階に駆け上がった。

 もうどうにでもなれ、という思いが、洋の心の中を吹き荒れていた。これまで 辛い生活に何とか耐えて頑張ってきた洋だったが、いまその心は断ち切れた。

 もういい、もういい、もうこんな生活はご免だ、という思いが、それをこらえ ていた洋の心の中に洪水のように迸った。もう郷里に帰ろう。洋はそう決心した。

 洋は帰り仕度をしながら、怒り狂った猫山が上がってきて、
「帰れ!」
と吠えるのを待った。
 白衣をポロシャツに着替え、身の回りのものをバッグに詰めた。

 間もなく猫山が階段を軋ませて上がって来た。

 来た、と洋は立ち上がり、バッグを手にしっかり持って身構えた。

 猫山の大きな影が、狭い部屋の中で洋にのしかかるように立った。

 洋はその圧迫感に耐えながら、猫山の言葉を待った。

 その言葉を猫山が発した瞬間、
「バイバイ」
と言って、バッグを持ってバス停に向かって走り出すつもりだった。
「洋、ずいぶんしんき臭い顔してるやないか。女にでも振られたか。色男が型な しやな」
 それが猫山の第一声だった。その声は笑いを含んでいた。

 洋は、猫山の意外な態度に戸惑った。
「どうや、今夜は仕事休んでパーッと遊びに行ったろか。ワシがええとこ連れて ったる」

 そう言うと猫山は電話の受話器を取り、タクシーを呼んだ。

 洋は、何となくはぐらかされて、昂ぶっていた心の矛をおさめて猫山に従うし かなかった。

 タクシーに乗り込んだ猫山は、麓の街へ行くように命じた。

 うねうねとした山道を下り、三十分ほど走ってタクシーは歓楽街らしいネオン のただ中に着いた。

 冷房の効いたタクシーを降りると、そこは久しく遠ざかっていた真夏の夜の熱 気に満ちていた。

 猫山は、
「きれいな姐ちゃんがいっぱいいる店に連れたったる。触り放題やで」
と高ぶった声で言った。

 洋の目にも色鮮やかに見える数々のネオン、行き交う人々の話し声、漂ってい るこうした街特有の甘酸っぱい匂い、そして体に絡みつく真夏の熱気、そういう ものからもう一か月以上も離れて暮らしてきた洋は、たまらない懐かしさを覚え た。そしてその懐かしさが、洋の心をすぐに溶かしていった。
「洋、後の心配は要らん、ワシに任せて、腰抜けるまで遊びい」
と猫山は洋を煽った。

 猫山は、とある地下の酒場への階段を下りてドアを引いた。中は真っ暗だった。 洋にはそう見えた。テンポの早いロックが猛々しく鳴り響いている。
「ネコさん所の若い衆、洋ちゃんだって、色白でハンサムじゃない。私、ヒトミ ちゃんよ。揉んでもらえるかしら。この辺をたっぷり」
と、体をすり寄せるようにして座った女が、洋の耳元に口を寄せて言った。その 声は、猛々しく鳴っているロックに抗して、洋の耳にはほとんど叫び声のように 聞こえた。

 女はその言葉と同時に、洋の手を取って自分の腿の上に置いた。洋は、手を女 に預けたままぎごちなく水割りを飲んだ。濃い水割りが、夕食も食べていない腹 に流れて行くのを洋は感じた。

「ねェ、揉んで」

 女は、誘った洋の手を自分の腿に強く押しつけた。ごく短いスカートの下の女 の腿は冷たく滑るようで、人の肌とは違うもののように感じられた。

 洋は一瞬手を引っこめようとしたが、握っている女の力に負けて、そのままに しておいた。自分の手先が燃えるように熱くなるのを感じた。

 洋は残っていた水割りを一気に飲み干して、 「お代わりをください」
と女に頼んだ。
「あら、強いのね。ステキよ、どんどん飲んで」

 そう言って女は立ち上がった。

 洋は、体を寄せていた女が不意にいなくなって、冷房の効いた部屋の冷たい空 気と、猛々しく鳴り響いているロックが自分に襲いかかってくるように感じた。

 女が戻ってきて、さっきよりさらに体をすり寄せて座ると、洋は不思議な安堵 感を覚えた。女はすぐに洋の手を取って、また自分の腿の上に置いた。

 女が運んできた水割りは、さっきのものより甘く熱く感じられた。洋はそれを 一口、二口と間を置かずに飲んだ。
「ネェ、この手、何とかして。じっとしてちゃ駄目」

 女は洋の耳に口を寄せて囁いた。

 洋は自分の手を、女の腿の谷間へと滑らせていった。

〔9項の終わり〕
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