洋の夏休み
−3−

 洋はゆっくり入浴を楽しんで小屋に戻った。猫山は二階の窓越しに洗濯物を干 しているらしかった。

 もし啓子ちゃんが訪ねてきたら、猫山はどんな反応を示すだろうと思うと、洋 はおかしかった。

 洋はあちこち擦り切れた畳の上に寝そべり、持ってきたテープの中からモーツ ァルトの変ロ長調のピアノ協奏曲を選んでカセットレコーダーにかけた。アルフ レート・ブレンデルの演奏は軽快で、その澄んだ音色は、夏の高原によく似合っ ていた。こういう音楽を聞きながら、しばらくの間、下界の暑さと喧噪から離れ て山間の物置小屋で暮らすのも仙人のようでいい、と洋は思う。

 協奏曲の第一楽章が終わったところで、洋は朝食をとりに小屋を出た。この温 泉郷にいる間、食事は自分持ちで一日2回、ただ一軒ある、和の屋という食堂で 済ませることになる。和の屋のメニューは、定食と麺類、それに丼物が何種類か あるだけで、そう上等の料理は期待できなかった。

 洋が入って行くと、
「あら、来たね」
と、もう顔馴染みのおばさんが声を掛けてくれた。
「またよろしくお願いします」
と言って、洋は納豆卵定食を頼んだ。

 納豆卵定食は、何度か食べた記憶がある。やがて運ばれてくるお盆の上には、 ご飯にみそ汁、納豆に卵を落とした鉢、野菜の煮物、山菜の漬け物の鉢が並んで いるはずだった。

 そのように数少ないメニューの中から選んで食べるのだが、やがて毎日一度は カツ丼を食べるようになる。この春休みに来たときがそうだった。体力の消耗の 激しい仕事を何日か続けていると、ほかの食べ物ではとても体がもたなくなるの だ。このカツ丼と、自動販売機の缶コーヒーが、この温泉郷での洋にとって、欠 くことのできないエネルギー源だった。

 洋が食事を終えて小屋に戻って顔を合わせるなり、猫山が、
「洋、富屋の桧の間でお呼びや」
と言った。

 他の温泉とは違って、薬湯が売り物のこの温泉郷では長逗留の客も多く、昼間 からお呼びがかかることも珍しくない。

 洋は白衣に着替えて小屋を出た。富屋は、小屋から十分ほど山道を登った所に ある。舗装もしていない、石ころだらけの山道を十分ほど登る。見えていれば、 踏むこともない大きな石を踏んではよろめきながら、一歩一歩登る。登って行く 洋の右手は崖になっていたが、道の際にはガードレールもなく、日中はともかく、 夜、この山道を登るのは容易ではなかった。富屋にたどり着いたとき、洋の体は 汗ばんでいた。

 フロントの女性に案内されたのは、この旅館でいちばん値段が高いという部屋 だった。分厚い木のドアをノックして
「マッサージです」
と声を掛けると
「どうぞ」
と、乾いた、中年の女性らしい声が応じた。

 部屋に入ると、奥の縁側に置かれた椅子の辺りから、
「あら、猫山さんじゃなかったの」
と、落胆したような女性の声が聞こえた。
「済みません、猫山はちょっと用事で」
と洋は言葉を濁した。

 言葉を濁しながら洋は、猫山は自分の指名なのに、どうして来ないのかと訝っ た。
「そう、仕方がないわね、それじゃお願いします」 と言って、女の客は明るい縁側沿いに敷かれた布団の上に身を横たえた。

 横たわった女の客の背後に回り、その肩に触れた途端、洋は猫山が自分の指名 を避けた理由はこれかなと思った。女の客の肩はおそろしく固かった。凝り固ま って、肩全体が骨のような感触なのだ。

 こんなに固くては、とても揉みほぐせない。そう思いつつ、洋は力を込めて揉 み始めた。

 すると、すぐに女の客は、
「全然効かないから、もっと力を入れて揉んでちょうだい」
と不機嫌な声で言った。
「わかりました」
と答えて、洋は拇指を客の肩に食い込めとばかり、力いっぱい押し付けて揉んだ。

 しかし客は二、三分して、また、
「ちっとも変わらないわよ、もっと力を入れてちょうだい」
と厳しく迫った。

 洋は、内心驚きながら、腰を浮かして腕を真っ直ぐ伸ばし、拇指に全体重をか けるようにしてグイグイ揉み込んだ。普通の客なら、このくらいやれば、
「痛い痛い!」 と悲鳴を上げる力の入れ方だったが、女の客は無言で洋のするに任せている。

 洋は右肩を終えて、脊椎の際の筋を揉みにかかった。普通、女性の客の場合、 肩が局部的にひどく凝っていても、背中や腕や脚は凝っていない人が多い。とこ ろがこの客は、背中も肩同様、骨と識別できないほどに凝っていた。それに、固 く太っているために、指で触って目安にする背骨の在り処がほとんどわからない のだ。肩甲骨さえ、厚くて固い肉の奥に隠れていて、その際を探すのが容易でな かった。

 これはえらい客にぶつかったもんだな、金は要らないから勘弁してください、 とでも言って逃げ出そうかと洋は本気で考えた。真夏でもエアコンの要らないこ の山間の温泉郷だったが、全身から汗が噴き出して、洋は何度もポケットからタ オルを取り出してその汗を拭いた。

 しばらくして、突然女の客が口を開いた。
「ちっとも効かないわよ、うつ伏せになるから、背中に上がってくれる」

 この言葉を聞いて、洋は唖然とした。これほど力を込め、汗びっしょりになっ て揉んでいるのに、ちっとも効かないとはどういうことか。それに、足で踏んで くれという。マッサージというのは、あくまで指で、手で客の体を揉みほぐして 満足させるものだと洋は思っている。それを客に、
「お前の手で揉んでも効かないから、足で踏んでくれ」

 などと言われては型なしだ。もしかしたら猫山もそんなことを言われたことが あるのかもしれない。

 まさか逃げ出すわけにもいかず、洋は腹を決めて、
「わかりました。うつ伏せになってください」
と言って、掌と拇指に体重をかけ、女の客の背中を力いっぱい圧した。

 しかし洋の掌も指も、客の背中に沈むことなく弾き返された。本当に太ったマ ネキン人形の背中でも押しているようだった。指や掌にかけた自分の体重で手首 と指が痛む。それでも洋は、何とかこれで我慢してくれと、祈るような気持ちで 圧し続けた。
 そんな洋の思いが通じたのか、客はその後何も言わなかった。

 汗はとめどなく流れ続けた。汗を拭くついでに、洋は時計に触れてみた。昼前 に来て、もう二時近くなっている。普通の客なら四十分も揉めば満足してくれる のに、この客は二時間揉んでも一向に満足してくれない。いつもなら、
「以上です、どうもありがとうございました」
と明るい声で言う洋だったが、この客に対しては、いつそう言ったものか、タイ ミングがわからない。

 疲れて、目の前に光がチカチカする。たまらなく喉が乾く。

 洋が何とか足の指先まで揉み終えて、仕上げに座位で肩を揉むべく声を掛けよ うとしたとき、女の客はようやく口を開いた。
「ありがとう、もういいわよ」

 その、乾いて感情のこもらない声が、洋にはまるで神の声のように聞こえた。

 ああ、これで、この太ったマネキン人形のように固い体の客から解放されると 思うと、洋の体からスッと力が抜けた。
「あなた、学生さんなの? 猫山さんは若い職人が来てるって言っていたけど」
と女の客が尋ねた。

 洋はすっかり参っていて、猫山にいつか、
「洋、自分が学生だなんて客に言うたらあかんで。一人前の職人ということにし てあるよってな」
と言い含められていたことなどどこかに吹っ飛んでしまっていた。
「はい、そうです。免許はこの春に取りました」
と洋はいたずらを見つけられた子供のように項垂れて答えた。

 すると女の客は笑いを含んだ声で、
「そう、お釣りはいいわよ」
と言って、洋に札らしいものを差し出した。どうやらチップをくれるらしい。金 をもらうのもはばかられる洋にとって、これは意外だった。意外であると同時に、 自分が過分な扱いを受けたときのような照れくささを覚えた。
「ありがとうございます」
と下を向いたまま小さく言って、洋は金を受け取った。
「どうも、よく揉めなくて済みません」
と喉まで出かかった言葉を呑み込んで、洋は部屋を出た。

 部屋を出て階段を下りる洋の足元はフラついていた。腰は痛くて完全に伸ばせ ないし、膝は力が抜けて笑っている。喉が乾いてヒリヒリする。指と手首が腫れ ぼったくてズキズキ痛む。ランニングシャツも白衣も汗に濡れて、肌に貼り付い て気持ちが悪い。これであと一か月以上、はたして自分にこの仕事が務まるだろ うかと思うと、洋は自信がなかった。

 そんな思いに心を揺すられながら、洋は白杖にすがるようにして小屋までたど り着いた。

 猫山は一階の自分の部屋にいる様子だったが、洋は黙って二階に上がった。着 替えを終え、部屋にあった缶コーヒーを一息に飲み干してから、一階の猫山のも とに下りた。
「お客さん、なんぼくれた?」

 猫山は開口一番洋にそう尋ねた。

 洋はさっき女の客からもらった札を猫山の前に差し出した。 「ほう、一万円もろたか、何しろ銀座の会社の社長やさかいな、気前がええわ」 と猫山は言った。
「一万円もらっても、ああいう客はもうご免ですよ」
と洋は言いたかったが、これもやはりプロとして口にすべき言葉ではないと思っ て黙っていた。
「あの客な、いつも来ると十日間はいるよって、また電話きたら行きいや」 と猫山は言った。

 勘弁してくれ、と思いつつ、洋は猫山の部屋を出た。まだ夕食には早い時間だ ったが、富屋の客を、持てる力を振り絞って揉んだ洋は、空腹感に襲われて、食 事をとるべく小屋を出た。

 和の屋に入ると、洋はカツ丼を頼んだ。この温泉郷の食堂で最も元気の出るメ ニューはカツ丼をおいてほかにない。カツ丼ができてくるのを待つ間、洋は痛む 指と手首を左右交互に揉んだ。夕方までに、この指と手首の痛みが治まらないと 困ったことになる。

 洋は運ばれてきたカツ丼をそそくさと平げて、和の屋を出て、増屋の薬湯に向 かった。白っぽく濁った薬湯はぬるくて、さまざまな病気に効能のある鉱物が何 種類も溶け込んでいるということだった。そのぬるい薬湯と、熱い沸かし湯の浴 槽に交互に入ることは、確かに体にいいように思われた。

 風呂を出て小屋に戻った洋は、仕事の始まる夕方までのつもりで布団にもぐり 込んだ。
「洋起きろ、仕事や!」
という猫山の大声で洋は目覚めた。
「増屋の305や、行ってきい」

 のろのろと起き上がった洋に、猫山が命じた。

 洋の時計の針は五時を指していた。拇指と手首の痛みがまだ残っている上に、 寝起きの体はだるくて重い。洋は、旅館への道を、だるくて重い体を一歩一歩運 びながら、啓子ちゃんのことを思った。

 啓子ちゃん、本当に僕は君が来るまでここで頑張れるだろうか。激しい労働と、 修行僧のような生活に耐えて、僕は君が来るまで頑張れるだろうか。

 そう思うと、洋には自信がなかった。今から、旅館に向かうのをやめて、一時 間に一本、土産物屋の前から出るバスに飛び乗り、麓の駅まで下りて行きたいと いう思いが洋を誘った。

 幸いなことに、その夜は客が少なかった。増屋で二人、松屋ホテルで一人の客 を揉んで、洋は部屋に戻ることができた。それでも疲労感は強く、洋はビールを 飲むとすぐに寝てしまった。

 翌朝、起き抜けに風呂に入り、遅い朝食をとって小屋に戻った洋に、また猫山 が声をかけた。
「洋、また富屋の桧の間でお呼びや、今日はワシやのうて、お前がご指名や。腕 上げよったな洋、金ようけくれるし、ええお客さんつかんだやないか」
と猫山は冷やかすように言った。

 洋は訝った。不満足そうにしていたあの客が、なぜ自分を指名したのか。本当 に自分を指名したのだろうか。富屋への山道を歩きながら、洋はその疑問にとら われ続けた。

 昨日猫山が、銀座の会社の社長と言っていた女の客は、洋が部屋に入ると黙っ て布団に横たわった。

 洋は仕事にとりかかった。この客に毎日指名されたら、俺は潰れてしまうなと 思いながら渾身の力を込めて揉む。女の客の体は昨日と変わらず、コチコチに凝 り固まっている。こんな体で会社の社長をしているというのも大変だなと思いつ つ、洋は太ったマネキン人形のように固い体を揉み続けた。横臥位では力の入り 具合に限界があったから、また昨日のように腹臥位で勝負するしかない。

 女の客は昨日のように、「ちっとも効かない」とは言わなかった。最初からず っと黙ったままで、それが洋にとってはかえって不気味に感じられた。自分の力 が昨日より格段に強くなっているはずはないから、効き目は昨日と変わりはない だろう。諦めてしまったのかなとも思う。言っても無駄だと思っているのかもし れない。それにしても、どうして自分を指名したのか。背中に乗ってもらうにし ても、八十キロだという猫山のほうが、六十キロ足らずの洋より効き目がありそ うに思うのだが。
「すみません、うつ伏せになってください」
と洋が言ったとき、洋はすでに全身汗びっしょりだった。

 洋は今日も足や膝で乗ることはしないで、掌に精いっぱい体重をかけて客の背 中を圧した。最後に座位をとってもらって、肩を揉む。両手で額と後頭部を押さ えて首をグルグル回す。さらに両手首をつかんで、上に引っ張り上げ、次にその 腕を鈎の手に曲げ、背中に膝を当てて両腕を後ろに引いて客の胸を開く。これは、 凝りのひどい客に対するときの洋のマッサージのパターンだった。

 最後に肩と背中を軽く撫でて、洋が、
「どうもありがとうございました」
という言葉を発するまで何も言わなかった女の客が、そのとき口を開いた。
「私の体、固いでしょう」

 この問いに洋は一瞬戸惑ったが、
「ええ、とても固いです。疲れやすくありませんか」
と答えた。
「そうね、疲れやすいわね。若い頃、道路工事の仕事をしていたのよ。モッコを かついだり、一輪車を押したりしてね。スコップや鶴嘴を使ってね。重い縁石を 素手で持って運んだりして、それでこんなに体が固くなってしまった」

 女の客は、最後の一言を独り言ちるように言ったが、すぐにいつもの乾いた語 調に変わって、
「ご苦労さま」 と言って、昨日と同じように、洋に札を一枚手渡した。
「効きましたか、満足しましたか?」
と聞いてみたい思いに駆られたが、いまの洋にそれを聞く勇気はなかった。

 この女の客なら、
「効かなかったわよ」 とでも言いそうな気がした。

 洋は昨日同様、汗びっしょりになり、拇指と手首の痛みと、脚腰がフラつくの を覚えながら小屋に戻った。

〔3項の終わり〕
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