◇-縄のれん-◇
私は15年ほど前まで、東京都の西の外れの清瀬市という町で一人暮らしをし
ていた。その頃、勤め帰り、私はよく駅前の赤提灯に立ち寄って、ビールや酒を
飲んで帰った。私を迎える「いらっしゃい!」という威勢のよい声には、微塵の翳
りもなかった。
店員も、最初は白杖を持った私を珍らしそうに見ていたが、しばらく通ううち
に、どう対応したらいいかわかってきて、私が縄のれんをくぐ
って入ると、空いている席を教えてくれたり、酒やビール、焼き鳥、おでんなど、
私が頼んだものを運んできて、場所を説明しながら、私の前に置いてくれた。私
はビールや酒を、こぼさないように、親指をグラスの縁に当てて注いで飲んだ。
その店には私のように勤め帰り、カウンターに向かって一人黙々と飲んでいる
客が多かった。
ときどき、
隣の客と世間話もした。気のいい客から、一杯ご馳走になったことも何度もある。
客と店員の寛大さと、ある種の無関心さのおかげで、私は全く居心地の悪さを感
じ
ることはなかった。
アパートに帰り着くと、モーツアルトのピアノ協奏曲全集の一曲を聴きながら、
また飲んだ。
いまは家族もいて、一人で飲んで帰る気にもならないが、ときどきあの頃の
ことを懐しく思い出す。
この項終わりです
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