銀河


  階段を下りて黄昏の駅前に立つ。濃い灰色の空。狭い通りには、車のヘッドライトが連なっている。クラクションが鳴る。オートバイの爆音。すれ違う勤め帰りの人々の靴音、話し声が幾重にも折り重なって聞こえる。街灯、電光看板、店々の照明の光がぼんやり見える。
「焼き鳥、いかがですか」
 洋の耳に、嗄れた男の声が聞こえる。
 声の方角から、モツ焼きの匂いが漂ってくる。洋は通りを渡って、軒に提灯を下げた酒場の縄暖簾をくぐった。
「いらっしゃい」
 馴染みの男の店員が、
「こっちが空いていますよ」
 と声をかけてくれる。
 客の視線が自分に注がれるのを感じつつ、洋は白杖を頼りに丸い止まり木に腰を下ろす。

 洋は、ビールとモツ焼き、それにポテトサラダを頼んだ。店員は、すぐにビールとコップを洋の前に置いてくれた。
 洋は、自分でコップにビールを注いで飲む。コップの縁から溢れないように、人差し指を軽くコップの縁に当てて注ぐ。
 凹の字型のカウンターに止り木が並んでいるだけのこの店には、一人で飲んでいる客が多い。皆、黙々と飲んでいる。男の二人連れも二、三組いるらしく、話し声が聞こえる。これはどちらか一方が上役の悪口を言っていたり、自分がいかに仕事に有能であるかを自慢していたりする。それでも、客の殺気立った話し声で喧噪を極める繁華街の居酒屋に比べれば、店内は静かだ。

 ビールを二本飲み終えて、洋は店を出た。アルコールで血行のよくなった洋の目に、宵の街はほんのちょっと明るく見える。街灯や電光看板の光が、ふんわりと辺りに降っている感じだ。夜、洋には、歩いている人の姿や、路上に停めてある車は全く見えない。街灯や電光看板、行き交う車のライトの光で自分の位置を確かめながら、ゆっくり歩く。ときどき、電柱や停まっている車にぶつかる。洋の前歯一本は、停まっているトラックの荷台にぶつかったのがもとで、差し歯になっていた。

 洋が住んでいるアパートは、駅から歩いて10分ほどの所にある。階段を上って部屋に入る。 誰もいない室内の空気は、粗く疎らで動かない。
 窓を開け放ち、風呂に入ってまた酒を飲む。CDをプレーヤーにセットして、 マーラーの「大地の歌」を聴きながら酒を飲む。酒を飲みながら、点字に書き写した歌詞の意訳を指でなぞる。 点字は、何度も指でなぞったために潰れていて、判読が難しいが、洋は半ば記憶してしまっている。

 第一楽章、「大地の哀愁を歌う酒の歌」。その訳詞の「生は暗し、死もまた暗し」という一節が、 どこか酩酊した酔いどれの台詞のようで、洋は好きだった。
 人はなぜ酒を飲むのか。こうして暗い夜の底に沈んで、何ものかに心ゆくまで愛撫されたいからだ。 夜の気配に、酒に、歌に。
 第二楽章の「秋に寂しき者」。憂愁に満ちていながら甘美な響きをもつ、不思議なアルトの歌声は、 酒とともに洋の心に染みる。 洋は楽々園の小森トミさんが、アキちゃんと言った同僚の介護員のことを思ってみる。 しかし彼女は、洋が、夜一緒に酒を飲み、音楽を聴き、横たわって愛し合いたい女ではなかった。

 電話が鳴る。洋は、受話器を取らずにコールサインの数を数えた。
 ルー、ルー、ルー、……。
 コールサインは7回目で鳴りやんだ。
 「秋に寂しき者」の歌が終わると、洋は最終楽章の「告別」までCDを飛ばす。 この世では思いを遂げ得なかった者の、嘆きと悲哀、そして最期に訪れる救済の歌。 その歌と、甘い酒の舌触りに、洋の心は癒される。
 「告別」が始まって間もなく、また電話が鳴る。洋は今度はコールサインを数えることもなく、 それをやり過ごす。
 やがて、
「青き光満ちて、永遠に、永遠に……」
 と、アルトの歌声は消えていく。

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