銀河

20

 体を打つ衝撃と、肌に伝わる冷たい感触で洋は目覚めた。自分は一体どこにいるのだろう。なぜこんな冷たいものの上に仰向けに寝ているのか。ここはどこだろう。闇の底、銀河は変わることなく洋の目にまたたいている。自分は、銀河のただ中、冷たい宇宙空間に放り出されたのだろうか。暗い、暗い、本当に僕はどこにいるんだ。ユリは、ユリは、いるわけがない。ユリはもう僕から離れて、遠い町に行ってしまった。僕の前に二度と姿を見せることはないだろう。
 洋はゆっくりと闇の底に体を起こした。肌に感じている冷たい感触は、どうやら土らしかった。子供の頃に遊んだ、森の下土のように冷たい土。

 辺りを見回すと、遠くに光が一つ見えた。青白い光。
 手でそろそろと辺りを探ってみる。冷たく硬いコンクリートの感触。ザラザラしたモルタル壁の感触。ああ、ここは夜の独房か。自分は、何かとても悪いことに手を染めて、夜の牢獄に閉じ込められているのではないか。
 洋は背中に伝わってくる土の冷たさから逃れようと、ゆっくりと立ち上がった。立ち上がって、自分が裸足であることに気づいた。
 さっき目にした青白い光のほうに向かって、コンクリートの壁に手で触れながらそろそろと歩く。
 冷たい土の上を摺り足で数歩行くと、もう一つの青白い光が目に入った。それは街灯の光らしかった。
 ああ、ここは宇宙空間ではない。冷たい牢獄でもない。
 そこが自分のアパートの敷地内であることに、ようやく洋は気づいた。それにしても、どうして自分はここにいるのか。苦い酒を飲み、酔って寝入っていたはずの自分が、なぜこの冷たい夜の底にいるのか、洋にはわからなかった。とにかく部屋に戻らなければならない。洋は裸足で階段を上って、自分の部屋の前に立った。

 しかし、寝るときは鍵を掛けて寝るのが習慣だ。ドアを引くと、やはり鍵が掛かっている。
 どこか鍵の掛かっていないところはないか。洋は、まだ夜の底に沈んでいる意識で思いめぐらした。道路に面した出窓は開いているかもしれない。しかし、壁に足掛りはなく、そこにはとてもたどり着けない。
 あるいは換気のためにわずかに開けておくことの多いベランダに面した天窓の一つだけが開いているかもしれない。そこなら、何とか上れるだろうか。しかし、それも当たってみないとわからない。洋は、また裸足のまま、そっと塀伝いに一階の部屋の裏手に回り、テラスの屋根の支柱をよじ登った。東北の山間の町に育った洋は、木登りは得意だった。手探りでベランダの柵を乗り越え、開いていてくれと念じつつ、背伸びして天窓に触れてみる。四枚組みの窓のうち、片方はやはり開かない。もう一方に望みを託して手を伸ばす。

 動く。ホッとして、ガラスを蹴らないように気を配りながら、サッシのフレームに足を掛けて懸垂して天窓に頭を入れる。力みかえった腕と脚が震える。
 洋はようやくのことで自分の部屋に降り立った。打撲傷や擦り傷ができているらしく、体のあちこちが痛む。布団は部屋の真ん中に敷かれたままになっていた。
 照明をつけて、自分が落ちたと思われる出窓を手探りしてみると、やはりそこは開いている。しかも、引き戸の、カラーボックスが横にして置いてあるほうの窓が開いている。
 自分は、窓を開けて、カラーボックスを乗り越えて跳び降りたのかと思うと、洋は不思議な思いに打たれた。なぜそんなことをしたのか全くわからない。泥酔して、記憶のないままに行動したことは何度もあるが、これはちょっと違う。

 死のうとしたのか。そんなことはない。これまでの人生で、どんなことがあっ
ても、およそ死のうなどと思ったことはない。
 それではなぜ、まさか、トイレに行こうとして間違ったにしては、あまりに障害物が多すぎる。机の裏側の出窓、しかもカラーボックスが横にして置いてある。そこを乗り越えて行くというのは、酩酊しているときなりに、ある決意が必要ではないか。
 とりとめなく思いめぐらしているうちに、洋はいつかユリが、学院の寮で泥酔して窓から跳び降りて、また窓から部屋に入って、テーブルの上で花火をしたという話を思い出した。いま、洋には火をつけるべき花火はない。
 不意に悲哀がこみ上げてきて、洋は声を上げて泣き出した。

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